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あの旋風から50年……興南が、沖縄勢夏の甲子園通算70勝目

楊順行スポーツライター
2010年夏には、島袋洋奨らの活躍で春夏連覇した興南(写真:岡沢克郎/アフロ)

「もう50年ですか」

 土浦日大(茨城)に6対2で勝ったあと、興南(沖縄)・我喜屋優監督は感慨深そうに切り出した。

「冷静でコントロールがよく、相手打者の軸を崩すことができる」(我喜屋監督)先発・藤木琉悠が8回途中までを6安打1失点に抑え、残りは昨年夏のマウンドも経験した宮城大弥がしのぐ。4回まで無得点だった打線も、「対応力に優れ、予想以上にシャープ」(土浦日大・小菅勲監督)なスイングで、活発に15安打して6点を奪った。

 ポイントは8回、無死満塁での藤木から宮城へのスイッチだ。その時点で3対1、勝負はまだまだわからない。だがそこで、宮城が次打者を142キロの直球で三振に取り、1死満塁からは投ゴロ併殺。1点は覚悟する場面で無失点という、望みうるベストな結果である。我喜屋監督によると、

「(レフトに入れていた)宮城には、イニング間のキャッチボールから正しいフォームで投げ、登板の準備をしておきなさい、と。それは練習試合からやっていることです」

 これに対して宮城も、

「いつでも行くつもりで、6回くらいからは藤木さんに"ばててませんか"と声をかけていました」

 という強心臓で、最大のピンチを見事に断った。興南が決定的な3点を追加したのは、その裏だ。

アメリカ統治下の沖縄で……

 我喜屋監督のいう50年前、1968年夏。

 2回目の出場だった興南が、快進撃を見せた。当時沖縄はまだ、アメリカの統治下。選手はパスポートを持ち、沖縄から鹿児島まで船で10時間揺られ、さらに夜行列車で18時間かけて甲子園に入った。初戦は岡谷工(長野)に5対3で勝つと、岐阜南(現岐阜聖徳)には初回4点を先制されたが徐々に追い上げ、8回に逆転して8対5。沖縄勢初の1大会2勝をあげると、甲子園の判官びいきにも後押しされて、海星(長崎)との3回戦はエース・安次嶺信一が5安打で完封した。準々決勝は盛岡一(岩手)に12安打して10対4とベスト4に。準決勝は、優勝する興国(大阪)に大敗したが、当時は興南の試合が始まると琉球政府の会議はストップし、道を歩く人もいないくらいだった。

 この"興南旋風"のときの主将が、我喜屋その人である。当時を振り返る。

「開会式のリハーサルでは、なにしろこれだけ素晴らしい球場が初めてなので、入場行進の足がそろわずに大目玉を食らいました。勝ち進むたびに記者の方が多くなるんですが、質問は"授業は英語ですか""ハブとマングース、どっちが多いですか"……まるで、遠い国からきたチームみたいで(笑)。甲子園もすっかり様変わりしてますね。試合前の練習は、球場と道をはさんだ甲陽高校でやっていたんですが、そこはいま大型商業施設でしょう。また、室内練習場にクーラーがあるなんてね。だから選手たちには"オマエらは幸せだ"といっているんです。

 ただ、高校野球の精神は変わりません。たとえば宣誓の言葉にある"感謝""感動"。それらを通して、野球の先にあるスコアボードを目ざすように導くのが指導者の役目です」

 我喜屋は興南を卒業後、大昭和製紙北海道時代の74年には、北海道勢の都市対抗初優勝に貢献。のちには監督もつとめ、さらに2007年から母校の監督として10年に史上6校目の春夏連覇を達成したのはご存じの通り。

「50年前、まさか50年後にここで野球をやっているとは思いもしませんでした。幸せな男です」

 ちなみに、50年前当時の私は小学生。興南旋風と興国の優勝によって、"興"という字を覚えた。

スポーツライター

1960年、新潟県生まれ。82年、ベースボール・マガジン社に入社し、野球、相撲、バドミントン専門誌の編集に携わる。87年からフリーとして野球、サッカー、バレーボール、バドミントンなどの原稿を執筆。85年、KK最後の夏に“初出場”した甲子園取材は64回を数え、観戦は2500試合を超えた。春夏通じて55季連続“出場”中。著書は『「スコアブック」は知っている。』(KKベストセラーズ)『高校野球100年のヒーロー』『甲子園の魔物』『1998年 横浜高校 松坂大輔という旋風』ほか、近著に『1969年 松山商業と三沢高校』(ベースボール・マガジン社)。

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