後世に多大なる影響を与えた、信玄公旗掛松事件
公害は高度経済成長時代に問題になっており、数々の訴訟が起きたことさえあります。
そんな公害訴訟ですが、戦前にも似たようなことはありました。
この記事では戦前にあった公害訴訟、信玄公旗掛松事件について紹介していきます。
信玄公旗掛松事件が与えた影響
「権利濫用」という概念は、19世紀フランスで判例法として確立されました。
日本では明治期に牧野英一や富井政章らがこの概念を導入しましたが、当時の民法には触れられておらず、裁判で使われることはなかったのです。
しかし、1919年の信玄公旗掛松事件をきっかけに、権利濫用の議論が日本の法学界で注目されるようになります。
この事件では、松が国鉄の列車からの煤煙によって枯れたとして、松の所有者が国を相手に損害賠償を求めました。
大審院は原告の主張を認め、国が敗訴しました。この判決は日本の公害訴訟の先駆けとしても知られています。
この判決に影響を受け、京都帝国大学の大学院生だった末川博が1919年8月に「権利の濫用に関する一考察」という論文を発表しました。
末川はこの論文で、ローマ法やスイス民法、ドイツ民法、イギリス法を検討しながら、信玄公旗掛松事件の判決が権利濫用の問題に正しく対応したことを高く評価しました。
彼はこの研究をきっかけに「権利濫用論」を生涯のテーマとし、日本の法体系における権利濫用の問題に取り組んだのです。
そして、その研究成果は、日本国憲法第12条や現行民法第1条第3項に「権利の濫用は、これを許さない。」という形で明文化されました。
その結果、権利濫用は現代の日本の法律においても重要な原則として位置づけられるようになったのです。
一方で、今日の法学教育においてこの事件は過渡的な事例として扱われることが多く、現代の裁判において実例としての機能は失われつつあります。
窪田充見の『不法行為法』によれば、かつては「自己の権利を行使する者は他者を害さない」というローマ法の前提がありましたが、現代ではこの考え方はもはや共有されていないため、信玄公旗掛松事件のような権利濫用の法理はその意義を失っているとされています。
それでも、この事件が日本の法理史に与えた影響は大きく、特に国家権力による権利行使の絶対性が克服された点で意義深いものです。
信玄公旗掛松事件は、日本が近代法を取り入れる中で、外国法理とどのように向き合い、法学者たちがどのようにそれを発展させたかを示す重要な事例であり、法学史を理解する上で欠かせないものとなっているのです。
今でも残る勝利の碑
日野春駅前にある「信玄公旗掛松碑」は、かつて国鉄の汽車の煙で枯死した松の損害賠償を巡る裁判の勝訴を記念して建てられました。
この裁判は1919年、大審院で国の不法行為が認められ、松が枯死した原因が国側にあるとされた歴史的な判決であったのです。
清水は賠償金よりも松の歴史を後世に伝えることに重きを置き、この石碑を建設しました。
1933年に完成したこの碑は、松の枯死の責任を鉄道院(国)が認めたことを象徴する記念碑です。
石碑には「信玄公旗掛松が煙と振動で寿命を縮めた」と刻まれ、清水と共に裁判を戦った弁護士の藤巻嘉一郎が撰文しました。
石碑は当初、松があった場所に建てられましたが、1969年に中央本線の複線化工事に伴い、現在の場所に移設されたのです。
この移設は、信玄公旗掛松事件当時の国鉄の対応とは対照的に、国鉄が自らの費用で行ったものです。
今日、日野春駅を訪れる人は少ないものの、石碑は日本裁判史における重要なモニュメントとしての役割を果たし続けています。