【コラム】元SEALDs 奥田愛基さんの原点ーいじめと登校拒否、自殺未遂、沖縄、3.11
「表現の自由」が憲法で保障されているにもかかわらず、日本では、人々が政治について自分の意見をのべることを避け、またそもそも政治自体に関心がなく、自分が主権者だという自覚が足らないようである。そんな中、昨夏、国会前等で安保法制反対を叫んだのが学生団体SEALDs(シールズ)だった。後に、野党共闘の流れにも貢献するなど、彼らが、その存在感を示したのは間違いない。それは、メディアが彼らの活動を大きく取り上げたことも無関係ではなく、「若者が頑張っているから応援しよう」的な、メディア関係者が「下駄を履かせた」的なものもあるだろうが、一方で、自分の思いを他の誰でもない自身の言葉で紡ぎ、ストレートに表現する彼らの姿に惚れ込んだメディア関係者も少なくないからだろう、と取材してきた筆者も思う。国会前で訴え続けた彼らを見ていて、筆者が持った素朴な疑問が、投票率の低下など若者の政治離れが深刻な中で、なぜ、SEALDsのメンバー達は、意地の悪い政治家や評論家、そしてネットユーザーらの誹謗中傷にも臆せず、自分の思いを行動として示すことができたのか。SEALDsの立ち上げメンバーで、フロントマン的な役割を果たした奥田愛基さんの講演が、石川県金沢市であると聞いたので、取材に行き、講演やその前後で話をきいた。
〇いじめられ、登校拒否に
奥田さんの講演は、彼の著書『変える』(河出書房新社)の発売を記念して、金沢市の友人ら有志が企画したもので、先月26日に開催された。講演内容は、SEALDsの活動より、奥田さんの子ども時代を振り返るもので、ノンフィクション作家・中原一歩さんが聞き手。奥田さんの意外な過去を聞き出していた。「テレビとかで僕の映像とか使われるの際、いつも国会前とかで叫んでいるところだから、そういうイメージ持たれるんですよね」と、本人がやや苦笑気味に語るように、アグレッシブな印象が強い奥田さん。しかし、中学時代は陰湿ないじめに遭い、登校拒否になり、自室から滅多に出ることがなかった「引きこもり」だったという。「あの頃は、本当にモヤシのように痩せて、外に出ないから顔とかも真っ白。フラフラしてまっすぐ歩くことすらできなかったんですよ」(奥田さん)。
奥田さんがいじめに遭った理由も、ある意味、とても日本の社会を反映したものだった。つまり、「空気を読まなかった」から、いじめられたのである。「クラスの中で、派閥というか各チームに分かれていて、お前は敵なのか、味方なのか、どっちのチームにつくのか、と迫られました」(奥田さん)。奥田さんの父親はホームレスの人々の自立を支援し、身寄りのない人々を自宅に居候させ、社会復帰まで支えるという活動をしている。そんなこともあり、奥田さんにとっては、老若男女、様々な人々が時には衝突しながらも、皆仲良くしていることが当たり前だったのだ。しかし、中学では、些細なことで敵味方に分かれ、大した理由もなく、いじめの標的となったクラスメートを「ノリ」という同調圧力でいじめる、そんな「空気」が、奥田さんはたまらなく嫌だったと言う。
その「空気」に馴染めない奥田さんはいじめの対象となり、上記したように学校に行くことを止め、部屋に引き籠るようになってしまった。そして「このままでは高校も行けない」「人生終わる」と悩むようになり、自殺願望や「この世界が終わればいいのに」というネガティブな思考にとらわれるようにもなってしまった。
〇沖縄県・鳩間島で「必死に生きること」を学ぶ
追いつめられた奥田さんが取った行動は、「遠くに行く」ということだった。家族と離れて沖縄県の離島・鳩間島に移り、島民の老夫婦の下で暮らすことにしたという。そして、鳩間島での生活が、奥田さんに「必死で生きること」を教えてくれたのだそうだ。「鳩間島、海すごくきれいなんですけど、台風とかの自然災害も凄まじいんですよね。風速60メートルくらいになって、外にあるものなんか、全部飛ばされてしまう。だから、台風が近づいてくると皆、必死で家の補強とかやるんです。そういう自然の猛威の中で、必死に生きないと生きられない、ということを思い知らされました」「里親になってくれた、おじいとおばあも厳しくも温かくて。島に来てから、まだ不安定だった頃、大量の睡眠薬飲んでリストカットしてしまったんですけど、その時、おじいとおばあにメチャクチャ叱られました。おばあは、睡眠薬を全部燃やしちゃうし。まあ、そのおかげで睡眠薬なしでも眠れるようにはなりましたけど」(奥田さん)。
鳩間島での生活では、「民主主義の原点も学んだ」と奥田さんは言う。「鳩間島の島民は50人ほどで、島のことは、10人ほどの大人たちを中心に、島民が話し合って決めてました。だから、自分の意見をちゃんと言うことは死活問題で、自分の意見を言わないなんてことはあり得ませんでした」(奥田さん)。鳩間島で中学を卒業した奥田さんは、その後、島根県の全寮制の高校へと進学するのであるが、そこでも学校のルールは、生徒たちが話し合いで決めるとされ、そうした常に自分としての意見を表明すること、他者と議論することが習慣となっていたことが、後のSEALDsなどの活動につながったのだろう。
〇世界が終わっていいわけがない
自分の内面の問題でいっぱいいっぱいだった繊細な少年が、なぜ社会のことへも目を向けるようになったのか。その大きなきっかけは、東日本大震災だったという。「中学の頃、そして高校の頃も、世界なんて終わってしまえ、と考えていました。アニメのエヴァンゲリオンとかも好きだったんですよ。世界が滅亡して、その滅びの中で、自分が救われるみたいな。でも、震災で被災地の何もかもがメチャクチャになってしまったのを見て、全然嬉しくなんかなくて、悲しみしかなかった。当たり前だけど、世界が終わっていいわけがない、と思ったんです」(奥田さん)。奥田さんはその後、被災地でのボランティア活動に従事し、紆余曲折を経て、脱原発のデモにも参加するようになる。そこから、政治や社会の問題へ、学生たちの考えを発信していこう、というスタンスを確立させていくのだった。
〇人は変わろうとするならば、変われる
金沢での講演では、時間の制限もあり、SEALDsでの活動や、今後のことについては、奥田さんも語りつくせなかった。だが、筆者にとっては十分、興味深い内容だった。奥田さんの経験してきた話は、彼個人独特の部分もあるが、同時に、現在を生きる日本の人々にも通じる部分がある。その場の「空気」にその行動を左右され、確固とした自分としての意見を具体的なかたちとして示せない、自身のことばかりにいっぱいいっぱいで、社会のこと、政治のことに関心も持てないでいる、という人々は、むしろ、日本においてマジョリティーであろう。今、日本の政治は、明らかに混迷し、暴走しているが、それは政治家たちだけに責任があるのでなく、自身の問題として、政治をとらえることのできない、有権者側の責任でもある。だが、人は変わろうとするならば、変われる。奥田さんの話は、そんな、希望を感じさせるもので、小気味良かった。日本のリベラルの間では、SEALDsの解散を残念がる声も少なくないが、奥田さんに聞いたところ、政策シンクタンク「ReDEMOS」での活動は続けるというから、奥田さんが社会的な活動からまったく遠ざかるというわけでもないのだろう。若い奥田さんはこれからも成長を続けるのであろうから、その動向は筆者としても注視していきたい。