【戦国こぼれ話】織田信雄・信孝兄弟が織田信長の葬儀に参列しなかった真の事情
安倍晋三氏の国葬が論争となっているが、天正10年(1582)6月に織田信長が本能寺の変で横死した直後、織田信雄・信孝兄弟が織田信長の葬儀に参列しなかった。以下、その事情を検証することにしよう。
■揉めていた織田信雄・信孝兄弟
結論を先に言うと、織田信雄・信孝兄弟は揉めていたので、織田信長の葬儀に参列しなかった。信雄と信孝が揉めたのは、国境問題だ。
信雄が尾張、信孝が美濃を領有することになっていたが、その国境をめぐって揉めたのである。
天正10年(1582)8月11日、尾張・美濃の境目について、信孝から丹羽長秀と羽柴秀吉に問い合わせがあった。それは、美濃と尾張の国境を「大河切り」にしてほしいという要請だった。
大河とは、木曽川のことである。秀吉は「大河切り」に賛意を示し、信雄にそう申し入れるので、長秀も同様にしてほしいと申し述べた(以上「専行寺文書」)。
現在、愛知県と岐阜県の国境は、木曽川を境にしている。しかし、秀吉の時代の美濃と尾張の国境は、木曽川の北部を流れる境川だった。
木曽川が美濃と尾張の国境になれば、信孝の領土は広くなる。信孝は自身の領土を拡張すべく「大河切り」を申し出たが、むろん信雄が素直に応じるわけではなかった。
同年7月4日の時点で、信孝は尾張・美濃の国境付近に位置する瀬戸郷の給人の件について、秀吉に相談をしていた(「大阪城天守閣所蔵文書」)。国境が画定しない以上、9人がいずれに帰属するのかは、当然のごとく問題になった。
その結果、秀吉は信雄と信孝の国境紛争については、信孝の意向を尊重していたことが判明する。同日付の秀吉書状(稲葉重執宛)によると、国境画定の件が解決したことを報告し、居城の長浜城に戻った(「小川文書」)。
■繊細な国境問題
国境問題は、容易に解決はしなかった。同年9月3日、柴田勝家は長秀に書状を送った(「徳川記念財団所蔵文書」)。
この書状によると、尾張・美濃の国境問題は、長秀にも持ち込まれていたようだ。信雄と信孝は、この問題の解決を宿老衆に委ねたのだ。
信孝は「大河切り」を主張し、美濃東三郡(可児・土岐・恵那)を信雄に割譲すると交換条件を持ち出した。
一方、信雄は「国切り」(境川を美濃・尾張の国境とする)を主張したので、双方が譲ることなく、話は平行線をたどった。むろん、容易に結論が出る問題ではなかった。
国境付近では、諸給人、農民の帰属問題があったので、勝家は境目の国人と信雄、信孝の双方の奉行・宿老衆が調査することを助言した。
もし、新たに下々の者の帰属問題が生じたときは、その都度奉行を遣わして、解決すればよいとの態度を示した。つまり、明確に国境を画定するのではなく、問題が生じればその都度話し合うこととし、明確な判断を避けたのだ。
■まとめ
尾張・美濃の国境問題の結末は不明であるが、その後、解決されたことが確認できないので、信雄・信孝の溝が埋まらなかったようだ。国境問題は互いが納得する形で解決せず、不満だけが残った。
こういう問題があったので、葬儀の場で信雄も信孝も会いたくなかった。それゆえ、秀吉が率先して葬儀を執り行ったのである。秀吉の謀略でも何でもないのだ。