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「松井5敬遠」から30年の来年。河野和洋監督率いる帝京平成大が東都に参入する

楊順行スポーツライター
帝京平成大コーチ就任時の河野和洋(撮影/筆者)

「東都入りの夢がかないました。次なる夢は、神宮で校歌を歌うこと」

 帝京平成大学の河野和洋監督はそう語った。

 千葉県大学野球リーグに所属する帝京平成大。この秋、千葉リーグの2部で初優勝したが、1部との入れ替え戦を辞退した。2022年1月1日、東都大学野球連盟に新加盟するためだ。これで加盟校が22となる東都は、22年にもちなみ、愛称を『戦国東都』から『PREMIUM UNIVERSITIES22』(プレユニ22)に変更する。帝京平成大は、一番下の4部からのスタートだ。

 1992年夏の甲子園。明徳義塾(高知)は星稜(石川)と対戦し、3対2で勝利するのだが、怪物・松井秀喜(元ヤンキースなど)を5打席すべて敬遠したことが物議をかもした。いわゆる"松井5敬遠"だ。そのときの明徳の投手が河野である。

 河野はその後、専修大を経て社会人のヤマハで2年、アメリカの独立リーグでもつごう6年間野手としてプレー。帰国後は、クラブチーム・千葉熱血MAKINGの選手兼監督として、2015年にはクラブ選手権のベスト4まで進出している。16年に引退後は、

「それまでずっと野球ばかりだったんで、いろんな人と会ったり、さまざまな会合に参加しながら、人脈を広げる日々でした。馬淵(史郎・明徳義塾監督)さんとも何度もお会いしましたね」

 その間、18年12月にはプロ野球経験者が学生野球の指導者になるための資格回復研修会を受講。それまで、海外プロ野球経験者は対象外だったが、この年から受講可能となったのだ。資格を回復した河野は19年2月、帝京平成大野球部のコーチに就任。19年秋のリーグ終了後、監督となった。

ホンモノのスラッガーを育てたい

 話を聞いたのは、コーチに就任したときだ。

「とにかく、いつでもグラウンドがあるっていうのがうれしいですね。クラブチーム時代は、とにかく練習グラウンドの確保が大変だったんです。朝の5時から抽選に並んだり、あちこちの自治体に登録して抽選を申し込んだり。ですから、そこに行けばいつでもグラウンドがある、というのはすごくありがたいんですよ」

 帝京平成大は1990年春に千葉県大学野球リーグに加盟した(当時は帝京科学技術大)。この秋の神宮大会で、加盟の中央学院大が初優勝したように、なかなかのレベルにあるリーグ。帝京平成大は99年春には3部から2部に昇格すると、3部降格もあったが、15年秋からは2部に定着し、最高成績は2位。まずは2部優勝、そして中央学院大や国際武道大などが属する1部への昇格が当面の目標だった。当時、こんなふうに語っていた。

「甲子園経験者などほぼいませんから、レベル的にはまだまだこれから。ですが、選手の顔つきが変わってきた気はしますね。米独立リーグの経験からいうと、アメリカの選手たちは、一見個性だけでやっているように見えますが、実は打ち方ひとつとっても理に叶っている。それを教え込んで、本当のスラッガーを育てたいですね」

 だが実は河野は、このときから東都への加盟を考えていたのだろう。監督就任以来、20年秋(春はコロナ禍で中止)は3位、21年春3位、そしてこの秋に初優勝と着実に力をつけ、東都への参入が実現したわけだ。

 河野からはかつて、松井5敬遠の話も何度も聞いた。

「こらあかん、と思いましたよ。92年の夏、ウチは星稜と長岡向陵(新潟)の勝ったほうと当たるので、その試合をレフトスタンドで見ていたんです。初回いきなり松井に回り、カーンと音がしたと思ったら速すぎて打球が見えない。"あれ、どこ行った?"と思ったら、そのホームラン性のライナーを、ライトがつかんでいました。馬淵さんも"あれはバケモン"というし、星稜戦の先発を告げられたときには、"松井はもう、相手にせえへんから"。結局試合では5打席ストライクなしの20球、全部ストレートです。ヘタに変化球を投げて引っかかったら、ストライクゾーンに行きかねませんから。自分が145キロでも投げられれば勝負もしたかったでしょうが、背番号8でわかるように本職のピッチャーじゃないし、プライドも何もない(笑)」

 ただこの試合は社会問題化し、勝った明徳はすっかり悪者になった。宿舎には嫌がらせや抗議の電話が殺到し、選手や監督は宿舎から出られず、練習の行き帰りはパトカーが付き添う始末だ。そういう状態では、平常心で野球ができるわけもなく、明徳は次戦で敗退してしまう。

「ただね……負けたあとのミーティングで、馬淵さんが号泣したんです。聞き取れたのは、"オマエらは悪うない、オマエらはよくやった"という言葉くらい。当時いくら批判されても、そういう人ですから僕らは信頼してついていったんですよ」

 そういえば20年の夏、甲子園交流試合を取材中に、河野から電話がかかってきた。どこにいるんですか……と聞くと、

「いま馬淵さんと、試合を見ていますよ」

 振り返ると、2人並んで観戦している河野が手を振っていたっけ。

 おもしろい後日談もある。後年、すでに引退していた松井と、テレビ番組の企画で対談し、1打席だけ対戦もした。このときもフルカウントからフォアボール。もう1打席、オンエアされなかった対戦でもフォアボールで、「だから松井に対しては、7打席すべて、ですね(笑)」。

 来年は、あの92年夏からちょうど30年。東都の4部は帝京平成大含めて4校で、実力は抜けているから、順調なら春リーグを制し、入れ替え戦も勝って3部に昇格しているはず……そんなことを考えていたら、河野からメールをいただいた。

「今後ともよろしくお願いします」

スポーツライター

1960年、新潟県生まれ。82年、ベースボール・マガジン社に入社し、野球、相撲、バドミントン専門誌の編集に携わる。87年からフリーとして野球、サッカー、バレーボール、バドミントンなどの原稿を執筆。85年、KK最後の夏に“初出場”した甲子園取材は64回を数え、観戦は2500試合を超えた。春夏通じて55季連続“出場”中。著書は『「スコアブック」は知っている。』(KKベストセラーズ)『高校野球100年のヒーロー』『甲子園の魔物』『1998年 横浜高校 松坂大輔という旋風』ほか、近著に『1969年 松山商業と三沢高校』(ベースボール・マガジン社)。

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