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成り行きでええんとちゃいます? (古田敦也) アスリートの名言集 3

楊順行スポーツライター
2017年WBCでの古田敦也(写真:YUTAKA/アフロスポーツ)

●成り行きでええんとちゃいます? 古田敦也

 ID野球の申し子として、現役時代は日本一に二度輝いたミスター・スワローズ、古田敦也。大学・社会人経験者で2000本安打を達成したのは、日本プロ球界ではこの人が史上初だ。現役時代は選手会会長としても、また現在は解説者、タレントとしても頭脳派ぶりが健在だ。それほどのキャリアを誇りながら、

「僕の野球人生は、成り行きなんです。成り行きも、まんざらじゃないですよ」

 高校進学時、強豪から声はかかったが、選んだのは家の近くの公立高校。大学も家の近くで通いたいと、誘いのあった立命館大に断りに足を運ぶと、大歓迎。18歳の少年は、他愛なく心変わりした。大卒時、「メガネの捕手は大成しない」とドラフト指名を回避され、トヨタ自動車を経てプロ入りしたのも、「せっかくならやってみようか」という程度。古田は言う。

「世の中に出回っているサクセス・ストーリーって、子どものころに設定した目標を、強じんな意志で追い求め、挫折や失敗を繰り返しながらとうとうそこにたどり着く、というのがほとんどでしょう。でも、僕みたいに成り行きまかせで成功した人だって多いと思うんです。ノーベル賞を取るような立派な科学者でも、最初から"ノーベル賞を取る!"と研究に没頭していた人は少ないんじゃないですか」

 むろん成り行きと言っても、けっしてマイナスの意味じゃない。その場ではいくつかある選択肢を吟味し、決断した以上はその選択がよりいい結果につながるように全力を尽くす。プロ入り時、野村克也監督のすべてを吸収するため、野村氏の著作ほとんどすべてに目を通したのは、「まず、どういう考え方なのかを知っておきたかったから。成り行きとは言っても、決断した環境に対応していくのは自分ですからね」。もし新年に転職を考えている人には、参考になるかも。

 

●出すぎた杭は打たれない 丸山茂樹

 プロゴルファーの丸山茂樹は、1992年にプロテストに合格すると、翌年には早くも日本ツアーで優勝。2000年からはアメリカのPGAツアーに参戦し、日本人初の2勝(通算3勝)を挙げるなど、世界ランクを最高19位にまで上げた。

 ゴルフを始めたのは小学校4年。勉強はどうする、と父に問われると、「両立はむずかしいから勉強はやりませんが、その分がむしゃらにゴルフをやる。クラスで一番勉強する子が一日5時間なら、僕はゴルフの練習を6時間やります」と誓った。そこからは友だちが遊んでいる時間もわき目もふらず、多い日で1000球の打ち込み。はたから見れば子どもには酷だが、「毎週、毎日、打てば打つだけ成長が実感できるから、楽しかった」という。

 明るい性格で、デビュー当時には達者なモノマネなどでテレビでも人気者に。デビュー2年目にツアーの優勝に見放されると、本業以外で人気が出てどうする、ゴルフをしっかりやらないからだ……と陰口をたたかれた。だが本人は、意に介さない。

「日本では、出る杭は打たれますけど、出すぎてしまえば、もうだれも打とうとしない」

 現に丸山は、3年目から毎年優勝を重ね、国内ツアーでは現在通算10勝を記録している。「僕は小学校の作文で、将来はプロゴルファーになると書いた。作文に書いた夢を実現できるのは、1%もいないんじゃないですか。そう考えると幸せだし、つらいことなんてないですよ」。

●10カ月前に"辞めたい"と言っていたヤツが金メダル 瀧本誠

 2000年のシドニー五輪・柔道81キロ級で金メダルを獲得した瀧本誠は、異端の柔道家と言われた。日本大時代は、下級生に課される理不尽な当番制を断固拒否し、明け方まで引っ張り回される飲み会を途中で抜け出した。そうした慣習は、自らの年代ですべて廃止。「強くなるためにちゃんと練習しようよ、というだけのこと」とは本人だが、強固な縦社会で悪しき伝統を断ち切るには、相当なエネルギーが必要だったはずだ。

 1999年11月、オリンピックの一次選考会では3回戦で古賀稔彦に敗れた。これでもう、出場は無理……そう判断した瀧本は、出場するはずの敗者復活戦をすっぽかし、そのまま会場をあとにした。むろん、所属のJRAや大会関係者からは大目玉。もう柔道はできないな、と舞い戻った実家で青果店を継ぐことを考え、携帯電話の電源も切った。だが、柔道仲間だった同級生との飲み会で説得され、1カ月ぶりに道着を身につけた。

 すっぽかしのペナルティーで、まずは格下の大会から復帰するはずだったが、格の高いドイツ国際に出るはずの選手がケガで出場辞退。オリンピック出場にはまだ首の皮一枚つながっていたここから、代役出場の瀧本に運が向いてくる。

「だれも期待していないし、まあいいか、もしダメなら足を洗って、柔道以外のことをやればいい。オリンピックなんて、まるで考えていませんでしたから気負いも悲壮感もない。むしろ、海外遠征も最後だろうから、使い捨てカメラでドイツの町並みを撮りまくったり、買い物に行ったりと存分に楽しんだ」

 ところが、肩の力が抜けたのがよかったのか、世界の一線級が集まるこの大会で優勝。いったん実家に戻ってから3カ月、2000年2月のことだ。結局、あきらめたはずのオリンピック代表に、ぎりぎりで滑り込むことになる。

 ただ、そんな曲折があるから、オリンピック本番になっても瀧本への期待は薄かった。それどころか、オリンピック特集の雑誌を手にとっても、ほかの柔道選手は表紙にまでなっているのに、瀧本は顔写真すら掲載されない。設定された取材日には、瀧本を除く全員に記者が群がるなか、ぽつんと「付き人みたいに立っていました(笑)」。

 だけど、と瀧本は言う。

「あまり注目されないのは、逆に過度な重圧がなくてよかったかもしれません。だから本番も、楽しもう、勝とうが負けようが自分の責任だ、と」。その結果の金メダル獲得は、敗者復活戦をすっぽかしてから10カ月後のことだった。

「かと思うと、ずっとメダル候補と言われていても、たった1日で突き落とされるのがオリンピック。4年間のプロセスが、その1日に凝縮されているんですね」。

スポーツライター

1960年、新潟県生まれ。82年、ベースボール・マガジン社に入社し、野球、相撲、バドミントン専門誌の編集に携わる。87年からフリーとして野球、サッカー、バレーボール、バドミントンなどの原稿を執筆。85年、KK最後の夏に“初出場”した甲子園取材は64回を数え、観戦は2500試合を超えた。春夏通じて55季連続“出場”中。著書は『「スコアブック」は知っている。』(KKベストセラーズ)『高校野球100年のヒーロー』『甲子園の魔物』『1998年 横浜高校 松坂大輔という旋風』ほか、近著に『1969年 松山商業と三沢高校』(ベースボール・マガジン社)。

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