【京都市中京区】祇園祭の発祥は壬生村にあった? 綾傘鉾の棒振り踊りに今も続く古来よりの風習とは!
2023祇園祭もいよいよ2023年7月17日に前祭ハイライトの山鉾巡行を迎えて、すでに宵々山から鉾町は人々で溢れかえっています。
さて、一般的に祇園祭の発祥というと、864年(貞観6年)の富士山の大噴火や、869年(貞観11年)の陸奥での地震や津波によって多数の犠牲者が出るなどの社会不安が深刻化したり、京で疫病が流行した際、広大な禁裏の庭園だった神泉苑(中京区)に牛頭天王を祀り、当時の国の数にちなんで66本の鉾を立て、祇園感心院(現在の八坂神社)の神輿を迎えて災厄が取り除かれるよう祈ったという御霊会が起源とされています。
しかし、それも諸説あるようです。新選組ゆかりの通りとしても人気のある壬生地域の坊城通四条には、元祇園梛神社(なぎじんじゃ)がひっそりと鎮座されています。梛神社と隼神社の二つの本殿が横に並ぶ珍しい神社です。実は、社殿によるとこの梛神社こそが祇園祭発祥の地と言い伝えられています。
「清和天皇、貞観十一年(八六九)三月朔日、京都に疫病が流行し、その悪疫を薙払い疫を鎮めるために、牛頭天皇を播磨国広峰より勧請して四条の坊城へ神輿を入れ奉られました。此の地に数万本の梛の木があり、源某と言う者が此の地に居住し、神霊を朱雀大路に近い梛の林中に祭祀しました。後に八坂の郷に御遷座のとき、当地の住人は花を飾った風流傘を立て、棒を振り、楽を奏して神輿をお送りしました。これが祇園会の起源ともいわれ、古来より祇園会に傘鉾の役人は壬生村より出る定めになっていると伝えられています」とあります。
また、江戸時代に出版された「祇園会細記」には、「(古例)赤熊(しゃぐま)の棒振、隠太鼓(かくしだいこ)、はやし方ハ、壬生村より出る。七人之有り。児三人床机持ハ町内より出る」と書かれています。現在でも、赤熊(しゃぐま)を被った者たちのユニークな「棒振り囃子」を演じる「綾傘鉾囃子方保存会」は、中京区壬生の郷土芸能団体「壬生六斎念仏講中」が担っています。
その後、明治維新による神仏分離令により神社名が八坂神社となった際に、祭礼名も仏教色を排除するため「祇園御霊会」から「祇園祭」に変更されました。「綾傘鉾」は、現在の一般的な山鉾の形が出来上がる前の古来の形式といえます。今宮神社のやすらい祭の「花傘」に代表されるような風流と呼ばれる作り物や芸能を今に伝えるものとされています。
坊城通は二条城の南側、壬生大路と朱雀大路の間にあった平安京の坊城小路にあたり、千本通の一本東側を三条通から七条通まで続く古路です。坊城とは、京内を区画した「坊」ごとに周囲を囲む塀のことで、平安京では朱雀大路に面する左京・右京の一坊のみに坊城が設けられていたといいます。
坊城通では、2023年7月8日(土)~9月30日(土)京都市と京都市観光協会が主催する「京の夏の旅」で、壬生寺、前川邸、新徳禅寺が特別公開されています。7月16日には壬生寺の壬生塚で新選組の土方歳三の胸像建立の除幕式も行われました。
みなさん、歴史ロマンあふれる壬生路へ足をお運びください!
元祇園 梛神社(なぎじんじゃ)・隼神社(はやぶさじんじゃ)(外部リンク)京都市中京区壬生梛ノ宮町18-2 075-841-4069