妻や子供を奴隷にした目的とは…国内初の奴隷制度「五色の賤(ごしきのせん)」紹介
生前の聖徳太子が推古天皇の摂政として、代わりに内政業務を担当していた飛鳥時代のころ。聖徳太子は、当時の先進国であった隣国の隋(現・中国)に注目し、その文化を日本に持ち込むために小野妹子のような遣隋使を派遣して視察を繰り返しました。
奈良時代に移り変わると隋を模した本格的な国家体制が整備され、国内初の法律制度を導入した国家体制「律令国家」が誕生します。
この律令国家の仕組みに、国内初となる奴隷制度「五色の賤(ごしきのせん)」も組み込まれていました。
詳しく見ていきましょう。
◇五色の賤とは
五色の賤とは、日本国民を5パターンに振り分けた身分制度のことです。
位の高い順に「陵戸(りょうこ)」「官戸(かんこ)」「家人(けにん)」「公奴婢(くぬひ)」「私奴婢(しぬひ)」があり、公奴婢と私奴婢が奴隷として扱われた者たちの総称でした。
公奴婢は国に属する奴隷で、私奴婢は個人が所有する奴隷。私奴婢には人権が与えられておらず、「奴(男奴隷)」は領主や金持ちの田畑を育てる肉体労働として酷使され、「婢(女奴隷)」は性奴隷として扱われたといわれています。
◇女奴隷の価値と妊娠
当時は避妊道具などなく、婢のお腹に命が宿ることも珍しくありませんでした。
身分の違う者同士の間で誕生した子供は、位の高い方の身分として扱われたそうです。
というのも当時の奴隷は租税(現代の税金)を納める必要がなく、国家としては租税を少しでも多く納めてほしいという狙いがあったのではないかと考えられています。
例えば、官戸と私奴婢の間に子供ができた場合、生まれてきた子は「官戸」として扱われました。
また、結婚した場合にも身分の繰り上げが行われています。
こちらの例としては、婢(女奴隷)が「官戸」と結婚した場合には、「官戸」として扱われることになるイメージです。
◇節税対策
この時代、結婚したり子供が生まれたりすると、「租税問題」が大きくのしかかってきました。
当時の税金は、米や芋などの食料で、分け与えられた口分田のサイズで納める量が決められていたのです。例え、不作の年であっても決められた租税を納められなかった者は奴隷になるしかありません。
そこで行われたのが節税対策です。当時の町役場に赴き、妻や子供を奴隷の身分に繰り下げることで納める租税を少なくしようという魂胆でした。
なかには、子供を沢山作って私奴婢にすることで税金を納めずに働き手を量産した者もいたとか。
そのため、次第に当時の身分文化は破綻。国家体制での身分制度はあっけなく廃止されてしまいました。
ただ、その後の国内でも奴隷売買はしばらく続くこととなります。
それは、また別のお話で。
さて、今回の記事に登場した聖徳太子により建立された国内初の世界遺産「法隆寺」は、当時の背景を経験してきた歴史ある建物でもあります。
気になった方はぜひ、足を運んでみてくださいね。