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【深掘り「鎌倉殿の13人」】北条一族が鎌倉幕府を窮地に陥れた政変3選

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
源頼朝。(提供:アフロ)

 大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、源頼朝の没後から急展開である。そのうち鎌倉幕府を震撼させた政変を3つ選び、詳しく掘り下げてみよう。

①梶原景時の変

 正治元年(1199)10月、結城朝光は亡き源頼朝の思い出を語り、「忠臣は二君に仕えずというのだから、出家すべき」だったと述べ、世情が穏やかではない旨の発言をした。梶原景時は朝光の発言を問題視し、讒言に及んだのである。

 驚いた朝光が三浦義村に相談すると、日頃から景時に不満を抱いていた御家人の景時討伐の気運が大いに高まった。同年10月、御家人66名は鶴岡八幡宮に結集し、景時の弾劾状に署名した。同年11月、源頼家は景時の弁明を聞くことになった。

 結局、景時は讒言の件について、十分な弁明ができなかった。同年12月、景時は鎌倉を追放され、相模国へ一族郎党とともに下向したのである。

 翌年1月、景時は相模国に城を構え、鎌倉幕府に謀反の意を示し、西国の武士を味方にするため上洛した。しかし、景時は駿河国狐崎(静岡市清水区)近くで幕府方に敗れ、無念にも討ち死にしたのである。

②比企能員の変

 建仁3年(1203)9月2日、北条時政は比企能員を討伐した。原因は源頼家が危篤になったので、時政はその遺領を配分を能員に提案したが断られたことだ。そこで、時政は能員を呼び出し討ち取ったのだ。

 能員が殺害されると、その従者はただちに小御所に逃げ帰り、その死を伝えた。比企一族は時政らの攻撃に備え、小御所に籠った。

 比企一族が小御所に籠ったことを知った北条政子は、すぐに比企一族の謀反とみなし、軍勢を遣わして討滅するよう命じた。総大将を務めたのは、北条義時だった。

 比企一族は、能員の子の三郎、時員を中心として防戦に努めたが、畠山重忠が軍勢を繰り出すと、比企一族は苦戦した。結局、比企一族は観念して館に放火し、一族のほとんどが自害して果てたのである。

③畠山重忠の乱

 元久2年(1205)6月21日、平賀朝雅は畠山重保とトラブルになったので、牧の方に重保を讒言した。すると、牧の方は北条時政に「重忠・重保父子の謀反の意のあらわれである」と報告した。

 時政は子の義時・時房兄弟に相談すると、2人は討伐を控えるよう助言した。しかし、大岡時親(牧の方の兄)の口入もあり、結局、義時らは重忠・重保父子の討伐に同意した。

 同年6月22日、畠山氏討伐の軍勢が由比ガ浜に出陣すると、事情を知らない重保も鎌倉から由比ガ浜に向かった。そこで、重保は自らが討伐対象だったことを知るが、あっけなく討たれた。

 幕府の軍勢は重忠の討伐に向かい、両軍は二俣川(横浜市旭区)で交戦した。しかし、重忠は寡兵にすぎず、幕府の大軍に敗れた。ところで、一連の討伐には後日譚があった

 帰陣した義時は、時政に重忠・重保父子に謀反の意がなかったと報告した。重忠・重保父子の軍勢は少なく、幕府に対抗できるとは思えなかったのだ。それは、単なる濡れ衣だった。

■まとめ

 ここでは3つの政変を取り上げたが、これに今回の牧氏事件を加えて4つである。牧氏事件に関しては、今週の記事を参考にしていただけると幸いである。

 とはいえ、天上に召された頼朝は、きっと「まさか、こんなことになるなんて!」と嘆息したに違いない。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書など多数。

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