【深掘り「逃げ上手の若君」】あまりにマニアックなテーマ。主人公の北条時行と鎌倉幕府滅亡の背景とは
■「逃げ上手の若君」の連載開始
私たちが子供の頃は、漫画やアニメで時代劇が少なからずあった。しかし、近年は大人向けのテレビ時代劇も含め、かなり低調だ。しかし、1月から週刊少年ジャンプで松井優征さんの「逃げ上手の若君」(以下、「若君」と省略)が連載されることになった。早くもネット上でも評判になっている。
私も数十年ぶりに近所のコンビニで購入。これは、なかなかおもしろい。せっかくなので、「若君」の内容を深掘りしたいと思う。今回は、主人公の北条時行と鎌倉幕府滅亡についてである。
■北条時行とは?
「若君」では、少年の姿で描かれていた時行。14代執権・北条高時の次男(母は二位局)であるが、生年は不詳である。当時の人物で生年が不明なことは、別に珍しくない。
兄の邦時が正中2年(1325)11月の誕生なので、時行はそれ以降に生まれたということになろう。鎌倉幕府滅亡時は、10歳にも満たない子供だった。幼名は勝長寿丸、勝寿丸、亀寿、全嘉丸、亀寿丸などが伝わっている。通称は、相模次郎だった。残念ながら、幼い頃の時行については、知るところが少ない。
時行の父・高時は田楽や闘犬に熱中しており、「愚かで執権など務まらない」(『保暦間記』)と手厳しく評価されるような人物だった。それは編纂物に書かれた人物評であるが、おおむね外れてはおらず、政治には熱心ではなかったという。
高時の時代は御家人の窮乏化、悪党が跳梁するなど、世情が不安だった。人々の幕府に対する不満が高まっていたのだ。おまけに後醍醐天皇は天皇親政を目指し、正中の変(正中元年・1324)、元弘の変(元弘元年・1331)の2度にわたり、倒幕の兵を挙げた。
その都度、幕府は反乱の鎮圧に成功し、後醍醐は元弘2年(1332)に隠岐島(島根県)に流されたのである。幕府としては、「もう倒幕運動は起こらないはず」と安心していたかもしれない。
■鎌倉幕府の滅亡
隠岐に幽閉された後醍醐は、密かに倒幕のチャンスを狙っていた。元弘2年(1332)11月、大和に潜伏していた後醍醐の子・護良親王が倒幕のために兵を挙げた。翌元弘3年(1333)5月、上野国(群馬県)の新田義貞も倒幕の旗を掲げて挙兵。こうして各地では、倒幕の狼煙が上がったのである。
「若君」で描かれていたとおり、足利尊氏(最初は高氏だが、以下「尊氏」で統一)はもともと幕府方だった。しかし、尊氏は後醍醐から味方になるように誘われると、元弘3年(1333)4月29日に丹波国篠村八幡宮(京都府亀岡市)で挙兵し、5月7日に京都に攻め込み、六波羅探題を滅亡に追い込んだ。
やがて、諸国の武将は倒幕の軍勢に加わり、大きな勢力になった。上野国で倒幕の兵を挙げた義貞は、幕府と諸所で交戦し次々と撃破。元弘3年(1333)5月18日、義貞は鎌倉(神奈川県鎌倉市)の幕府軍に総攻撃を仕掛けたが、幕府軍の激しい抵抗もあって、両者は一進一退の攻防を繰り広げた。
同年5月21日、義貞は鎌倉市中に雪崩れ込み、幕府の主だった武将や北条一族を次々と討った。結局、時行の父・高時は北条氏の墓所・東勝寺(神奈川県鎌倉市)に逃れ、自刃して果てたのである。この戦いで、幕府方の犠牲者は6000余人に上ったという。
時行の兄・邦時は、義貞が鎌倉に攻め込んだ際、伯父の五大院宗繁とともに鎌倉市中に潜伏していた。しかし、幕府追討軍による北条一族の残党狩りがはじまると、宗繁は邦時を単独で伊豆山に向かわせた。
実は、宗繁はこの時点で邦時を裏切っており、このことを新田軍に密告していた。結局、邦時は逃げる途中で新田軍に捕らえられ、5月29日に鎌倉で処刑されたのである。
そして、鎌倉幕府が滅亡した際、時行は信濃(長野県)に本拠を置く諏訪頼重に救出され、信濃へと逃れたのである。