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覚えてますか? 呂比須ワグナー。日本のW杯初出場の原動力だった(その3)

楊順行スポーツライター
今季は、パラナ・クルーベの監督を務めていた呂比須ワグナー(写真:アフロ)

■流ちょうな日本語。礼儀正しさと人への気配り。呂比須さんと話していると、ブラジルから帰化したばかりとは思えません。

「顔はしょうがないけど、僕は日本人と変わんないんですよ。帰化したのは、代表になりたいのもそうだけど、日本が好きだから日本人になりたかったんです。1992年、長男のイゴールが生まれたのもそのきっかけでした。子どもと一緒に、この素晴らしい国でいつまでも暮らしたい……。ブラジルから書類を取り寄せたり、法務局に出かけて説明を受けたり、ラモス瑠偉さんにアドバイスを受けたりしましたね。94年には、在籍していた柏レイソルに保証人を引き受けてもらい、あとは書類を出して申請するだけだったんです。

だけど94年のシーズンが終わり、翌年の契約をする前の日です。柏が新しい外国人をとるというニュースが新聞に出たんですね。それで僕が不安に思っているんじゃないかと、ゼ・セルジオ監督(当時)が家にきてくれました。"君は帰化して日本人になるんだから、外国人の枠を気にする必要はない。契約はするから、心配しないで"と。でも翌日、いざフロントの人と話してみたら"J2からJ1に昇格する来年は、代表レベルの選手をとりたいから"と、たった5分でクビでした。

なんで? 僕は92年にはベストイレブンになっているし、93年のシーズンも17点取って昇格に貢献しているのに、年俸のアップはあっても解雇なんて信じられませんでした。それに、後少しで帰化申請が認められそうなのに、どうなるの……」

■! どうなったんですか。

「結局は本田技研が契約してくれたんですが、本田の地元の浜松に引っ越したため、申請の手続きはまた一からやり直しでした。また本田はJリーグの準会員じゃないし、年俸も柏時代より1500万円も下がったんです。それでも日本でプレーを続けたのは、それだけ日本が好きだったからです。96年のアトランタ・オリンピックで日本がブラジルに勝ったときも、涙が出るほど大喜びしたし、98年の長野オリンピックでは、清水(宏保)さんの金メダルにすごい感動していました。お刺身も、納豆も食べるしね(笑)」

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■そして96年のシーズンには2年連続で得点王になり、JFLで優勝。97年にはベルマーレ平塚(現湘南ベルマーレ)に移ります。 

「3月8日、Jリーグ開幕の日は感慨深かったですね。来日以来10年間、この日を待っていたんだな……と。大勢のファンが見てくれているなかで、明日死んでもいいくらいの気持ちでした。そしてなんとか帰化が認められ、今度はW杯ですから、本当にわくわくしています。とにかく、チームのみんなの力を信じて、自分は自分の力を精一杯出すこと。自分だけじゃなく、みんながどんどん点を取ること。そして自分も、1点が取れることを祈っています。いや、信じています。

いま、家での会話は、ポルトガル語と日本語の半々ですね。この間、家に届いた荷物を開けてみた息子(イゴール君)が、“パパ、すごいぞ、これ!”って日本語で話すので、びっくりしましたよ(笑)。右手のミサンガ? ブラジルに住むいとこ(カレナちゃん)が、ここ何年かずっとプレゼントしてくれているんです。2本あって、それぞれにベルマーレ、代表の願い事をこめています。その中身をいっちゃうと効き目がなくなるからいいませんが、96年には願い通り本田が優勝し、去年は帰化がかない、代表でもプレーできたんですよ」

※呂比須氏はのち、99〜00年と名古屋グランパスエイトで2年続けてチーム得点王。さらにFC東京、アビスパ福岡でプレーし、02年で現役を引退した。日本リーグ・JFL・Jリーグの合計得点203は、釜本邦茂の202を更新するものだ。その後ガンバ大阪のコーチから指導者生活をスタートし、05年からは故郷・ブラジルのクラブでキャリアを積んだ。14日には、新監督に就任するアルビレックス新潟の浦和戦を観戦する予定。「チャンスをいただき光栄。ベストを尽くして勝てるように頑張る」と話したそうで、僕の注目は右手にミサンガが巻かれているかどうか、だ。

スポーツライター

1960年、新潟県生まれ。82年、ベースボール・マガジン社に入社し、野球、相撲、バドミントン専門誌の編集に携わる。87年からフリーとして野球、サッカー、バレーボール、バドミントンなどの原稿を執筆。85年、KK最後の夏に“初出場”した甲子園取材は64回を数え、観戦は2500試合を超えた。春夏通じて55季連続“出場”中。著書は『「スコアブック」は知っている。』(KKベストセラーズ)『高校野球100年のヒーロー』『甲子園の魔物』『1998年 横浜高校 松坂大輔という旋風』ほか、近著に『1969年 松山商業と三沢高校』(ベースボール・マガジン社)。

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