母への憎しみと赦し。そこからの青木さやか
母との確執、葛藤、別れを綴った「婦人公論.jp」でのエッセイが反響を呼び、今年5月に著書「母」を上梓した青木さやかさん(48)。執筆を通じて向き合った自らの本質。そして、母への憎しみと赦しがもたらしたもの。今の胸のうちを吐露しました。
厄介な人間
5月に母についての本を出してから、本当にたくさんの方からSNSのメッセージやお手紙をいただくようになりました。
自分の親との関係性とか、逆に娘との関係性とか。私に伝えてきてくださるんです。本の感想というよりも、心に長年“フタ”をしていたものが本を読んだことでバンと開いて、その胸のうちを送って来てくださるといいますか。
なので、すごく長い文章で、中身も濃いお話をたくさんいただくんです。それを読ませてもらって感じたのは「やっぱり、これは人に言えないからなんだろうな」ということでした。
身内にも、近い友達にも言えない。直接知り合いではないけど、同じようなことを本で書いている私に送るというのがちょうど良い距離感だったのかもしれませんね。本当にたくさんいただくので、今は日々、会ったことのない人に対してものすごく手紙を書いています(笑)。
本を書くということ。特に、今回のように自分の体験をもとに本を書くということはこれまでの自分と向き合うことでもありました。
改めて自分を見てみて、面白い人間だなと思いつつ、本当に厄介な人間だなと痛感もしました(笑)。何が厄介かというと、人を信用しきれない。そこが一番だったと思います。
相手を信用しきれないから、あの手この手で相手の好意を感じようとする。でも、やっぱり信用できず好意を感じられないから「もう、いい!」となって、ちゃぶ台をひっくり返す。そりゃね、厄介ですよ(笑)。
「でも」をやめる
あと、これは2017年に病気(肺腺がん)をした時も強く感じたことでしたし、執筆による振り返りでも再認識したことだったんですけど、これまでを見直した時に何がストレスになっていたんだろうと。それを考えた時に、行きついたのが結局のところ人間関係だったということでした。
じゃ、人間関係の中でも何が一番ストレスになっていたんだろう。そこをさらに突き詰めていくと「でも」という言葉だったんです。
例えば、誰かが私のためを思って「こうした方がいいよ」と言ってくれたとしても、すぐさま「でも、そんなの無理だよ」と返す。何か作品に参加した時でも「ここはこうしてもらえますか」と言われた時に「でも、こうした方がいいと思います」と瞬間的に言ったりしてたんです。
人と真っすぐ向き合いにくい性分がここにも影響している。そう思いつつも、決して私だけのことではなく「その方が作品が良くなるはず」という思いがあって言っていたつもりでもあったんです。ただ、私の言い方なのか、根っこにある思いなのか、そこで人間関係がギクシャクすることが多くて。
そうなると、たとえ私の意見が通ったとしても家に帰るとすごく疲れているし、次またその現場に行くのが本当にイヤにしんどくなる。でも、そうやって言うことが良い作品を作ることにつながるはずと考えていたので、その摩擦みたいなものも含めて、良い作品のために必要なものだとも思っていました。
でも、病気をして自分の体を見つめ直した時に「でも」をやめてみようと思ったんです。何かが変わるんじゃないかと。
ただ、これはなかなか大変でした。ついつい「でも」が出ちゃう。43歳まで言い続けてきたことだったので染みついてますからね。完全に訓練の粋でした。
もうね、実験だと割り切ってやっていました。その作品を良くするために「でも」と言ってきたんですけど、それを言わないようにしたら作品の質がどれくらい落ちるんだろう。そう思って観察しにかかったんですけど、結果としては変わりませんでした。むしろ、上がっていた。
何に対しても「でも」から入る人間よりも、認めるところから入る方が向こうも受け入れ態勢が整うだろうし、協力しようという空気も高まるでしょうし、結果的に多くの場合、到達点は高くなる。
だったら「でも」を言う意味がない。その事実を自らに刻み込むように、少しずつ「でも」を減らしていきました。
ま、言っても全ては私の感じ方ですから(笑)、この実験結果もどこまで正しいかの検証は難しいんですけど、一つ間違いないのは自分のストレスが激減しました。これは100%確実に減りました。
どこの現場に行くのもすごく気が楽なんです。もめてないし、感情的なしこりもないし。毎回、友だちのところに行くように楽しくなってくる。この変化は今までは味わったことのないものだったので、すごく新鮮で楽しかったですね。
「あ、嫌いじゃない」
病気になったことで意識した「でも」を改めるための積み重ね。その感覚が、後の母との和解にも大きく影響を及ぼしたと思います。
亡くなった母への思いを「婦人公論.jp」の連載で書かせてもらったことが今回の本に結びついたんですけど、今から思うと、母はすごく不器用な人だったんだと思います。世間に見せる顔と実際の顔のギャップが激しい人だったとも思います。
ずっと母に対しては「自分が生きてきた中で一番苦手な人」という意識がありました。でも、母が嫌いであるということを持ち続けながら生活するのはすごくつらい。母が死んだとしても、嫌いだとか憎いという感情は残るだろうなと昔から思っていたんです。
地元の名古屋を離れた時とか、出産した時とか「もしかしたら母のことが好きになれるかも」と思った機会でも、ことごとくそうはなりませんでした。
最終的に母がホスピスに入った時、友人に言われたんです。「どんな親でも親は親だし、親孝行するのが道理。親と仲良くなると自分が楽になるよ」と。
それを言ってもらって、仲直りを決行しました。あくまでも“決行”という言葉がふさわしいと思っています。「亡くなる前だから自然と優しくなれた」みたいな人間でも私はないですしね。
母が亡くなるまでの数カ月は、毎回「何が何でもやるんだ」という決意表明をして東京から名古屋のホスピスに向かっていました。
いつも名古屋まで車で向かっていたんですけど、車の中で「今日はこの言葉をこれくらいの口調でこう言おう」と繰り返して向かっていました。それこそ芝居のセリフみたいに稽古してそのまま披露する。そうでもしないととても向き合えないというか、全細胞が嫌がっているというか。そんな感じでしたね。
いくら決意をしても、覚悟を決めても「やっぱりダメだ」と遂行できずに帰ってくる時もありました。苦労して上がった階段から転げ落ちる。そんな感覚を何度も味わいもしました。
その度、またいろいろな葛藤が出てくるんですけど「昨日よりは下がってしまったけど、1週間前よりは下がってない」「1カ月前はもっと低かった」と自分を鼓舞して何とか一進一退しつつも階段を上がっていきました。
何かが明確に変わるわけではないんですけど、一段ずつ上がっている気はする。そんな中で母が亡くなりました。
バタバタと手続きを済ませ、お葬式となりました。そこで、ふと感じたんです。
参列してくださった母のお友だちが「お母さんって、こういう人だったよね」と私たち家族に声をかけてくださった。その言葉の中の母は、やっぱりものすごく人格者だったんです。
それを聞いた時に「そんなんじゃないよね?やっぱり、外ではいい顔してたんだね」と家族と普通に話せている自分がいたんです。以前のようなたぎるような嫌悪感がなかった。その瞬間「あ、嫌いじゃないんだな」と思えたんです。
それと、不思議なんですけど、私の頭の中に残っている同じシーンなのに、私の感じ方がまるで違っているんです。
母のことが嫌いだった頃に浮かんでくるシーンと今浮かんでくるシーンで似通っているものがあるんですけど、私の感じ方がまるで違っているんです。
私の娘、母にとっての孫を抱いているシーン。母のことが嫌いだった頃は思い出したくもなかったんです。それが、今は「本当に喜んで可愛がっていたな」と思い出深い感情が出てくるようになってきました。
一番苦手だった人間との関係を変えられた。このことは大きな自信につながりました。これができたんだったら、他のこともできるはずだと。
あくまでも私の経験にすぎませんし、これだけが正解とは全く思いませんけど、一つの例として私はそう感じました。それを本という形で出して、たくさんの方からメッセージもいただいた。そこに一定の意味はあったのかなとは思っています。
今、もし母がいたらですか?そうですねぇ、何て話すでしょうね…。「結局、お母さんのことでたくさんお仕事をもらえててありがたいです」ということでしょうかね。かなり助かってますと(笑)。
昔の感覚だったら絶対に出てこない言葉でしょうね。でも、今の自分はそれが言える。決して悪い気分じゃないですし、一歩を踏み出そうと思った時の自分を誉めてあげてもいいなと思います。
(撮影・中西正男)
■青木さやか(あおき・さやか)
1973年3月27日生まれ。愛知県出身。大学卒業後、名古屋を中心にフリーアナウンサーとして活動し、96年にピン芸人としてデビューする。2003年からワタナベエンターテインメント所属となり、「どこ見てんのよ!」のフレーズでブレイクする。東京での活動を本格化させる。05年にダンサーの男性と結婚。10年には第一子となる長女を出産する。12年に離婚。17年には肺腺がんが見つかり手術を受ける。今年5月には結婚、出産、離婚、ガン、そして母との確執を綴った著書「母」を上梓した。また、舞台「Home,I’m Darling~愛しのマイホーム~」(10月20日~11月7日、東京・シアタークリエ)に出演する。青木以外のキャストは鈴木京香、高橋克実、江口のりこ、袴田吉彦、銀粉蝶。