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ドラフト候補カタログ【14】武岡龍世(八戸学院光星高)

楊順行スポーツライター
(写真:アフロ)

「おそらく、四国からは初めてじゃないでしょうか。坂本選手のようになりたいと思って、光星に進んだんです」

 つねに笑顔でわれわれに相対してくれる武岡龍世。この夏の甲子園で取材した選手のうち、ニコニコ度ではかなり上位にランキングされる。中学時代、徳島ホークスでプレーしていた武岡のあこがれは、八戸学院光星のOBで現巨人の坂本勇人だ。「坂本選手のようになりたいと思って」進んだ北の強豪でも、すぐに頭角を現した。1年春から先発で出場し、2年の夏には青森大会で打率5割、2本塁打。12打点もチームトップだった。その夏は、明石商(兵庫)との初戦を突破。武岡にとって3季連続だったこの夏の甲子園も、同じ明石商に敗れたが、チームはベスト8まで進出した。

W杯は全試合フルイニング出場

 夏の甲子園、主将の武岡が引いたクジは誉(愛知)との開幕戦だった。開会式直後とあって、心身の状態保持がむずかしい試合。通常とは違って、先攻を取りたいチームも多い。八戸学院光星も、そうだった。武岡はいう。

「県大会では、(先攻後攻を決める)じゃんけんをすべて負けていたんですよ。だけど今日は勝って、先攻を取りました!」

 じゃんけんに勝つ武岡の"殊勲"で先攻を取ったチームは、初回に4点を先制する大勝発進である。

 仲井宗基監督は、「キャプテンとしてよくチームをまとめてくれた」と評価するが、実は本人、自分は主将の柄じゃないと重荷に感じた時期もあったという。センバツでは広陵(広島)に初戦負けし、夏こそ……というその後の責任感が知らず知らずプレッシャーとなったのだろう。ただある日、「顔が違うよ」と周囲から指摘された。それでハッと気がついた。

「キャプテンになって、意識的に性格を変えようとしていたんです。率先して声を出し、厳しいことも指摘し……そういう切羽詰まった心理が、顔に出ていたんでしょうね。もちろん、自分にかかる責任は変わらないんですが、甲子園に来たからには試合を楽しもうと思えるようになったんです」

 なるほど、ニコニコの理由はそれだったのか。その笑顔からはさほどすごみを感じないが、実力も折り紙つきだ。坂本と同じ「KOSEI」の6番を背負った3度の甲子園では、通算32打数9安打。この夏、智弁学園(奈良)との2回戦では、自身の甲子園初ホームランも記録している。目につくのは、守備の安定感だ。投球に合わせてグラブを地面につくのは、下から上へという捕球の基本をつねに意識しているから。1歩目の反応が速く、50メートル5秒台の足もあって守備範囲が広い。

 U18ワールドカップでは、控えだった大学代表との壮行試合で、代打でライト線に痛烈な二塁打。本戦では、初戦から指名打者でスタメン出場し、タイブレークとなった韓国戦では延長10回表、1死二、三塁から高めのスライダーにうまく反応し、2点二塁打を放っている。チームは結局敗れたが、バットコントロールの巧みさが光った打席だった。パナマ戦からは本職のショートに入り、結局全試合フルイニングに出場。

「初めて外野を守ったり、ポジションも含めて、これまで味わったことのない経験をさせてもらいました。外国人投手特有のボールを、しっかりバントできたこともプラスになります」

 もちろん、プロ野球でプレーするための「プラス」である。

スポーツライター

1960年、新潟県生まれ。82年、ベースボール・マガジン社に入社し、野球、相撲、バドミントン専門誌の編集に携わる。87年からフリーとして野球、サッカー、バレーボール、バドミントンなどの原稿を執筆。85年、KK最後の夏に“初出場”した甲子園取材は64回を数え、観戦は2500試合を超えた。春夏通じて55季連続“出場”中。著書は『「スコアブック」は知っている。』(KKベストセラーズ)『高校野球100年のヒーロー』『甲子園の魔物』『1998年 横浜高校 松坂大輔という旋風』ほか、近著に『1969年 松山商業と三沢高校』(ベースボール・マガジン社)。

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