【総選挙2014】田中康夫さんが語る「全てがphony(まがいもの)の時代」の政治家の選び方
■国益を語る前に、国民益を語れーー(田中康夫)
先日、「33年後のなんとなく、クリスタル」を発表した作家の田中康夫さん。
衆議院議員、参議院議員、長野県知事と、政治家としても活躍してきた。
田中さんは今回の総選挙を、羊頭狗肉選挙、朝三暮四選挙、国共合作選挙だと名付ける。「この国のカタチを語りたがる人が多いが、この国のカタチではなくあり方を語るべきだと思っている」と話す。
国益を語る前に、国民益を語れーー。
これも田中さんの言葉だ。
いま、政治家に求められる資質とは何か、投票前に聞いておきたい田中康夫さんのインタビュー。
■「この国のカタチを語るのではなく、あり方を語るべき」
(堀潤)
今回の選挙については、どういった視点に着目をされていらっしゃるのですか?
(田中康夫)
堀さんの番組に幾度か出させて頂いて、私は「朝三暮四選挙」だっていう事を申し上げましたし、「羊頭狗肉選挙」だ、あるいは「国共合作選挙」だという、いつかは上げるって言ってる人も含めて「税金いま上げません/税金上げません」て、全ての政党が言ってるわけですから、ひとつくらい「次自慰の党」は上げるっつてるのかもしれませんけれど、不思議な選挙ですね。でも、なんでしょう、その先にあるもの、だからメディアの側もそれを「大義がある」とかですね「今、時期じゃない」とね、そんなものは、だって何時かはあるわけでしょ?四年の中にはあるわけでしょ?一応その制度を変えない限りね。だから「大義」とか「時期が」とかという非常に不毛な言葉だと僕は思いますね。
で、むしろ先ほどの憲法というお話で言うと、小林よしのりさんや小林節さんのような、僕と違うことも言っていた人が結果として今同じことを言っている、で僕はこないだ週刊spaに、しばらく前に書いたんですけど、皆だって、ネット社会になって、世界と繋がってるけどファイアーウォールを設けてるわけでしょ?ファイアーウォールがあると、ないと、ウィルスが入って来ちゃいますってんですよね。でも集団的自衛権って「ファイアーウォールを全廃しましょう」っつてる話ですよね。で昔はね、つまり、不思議なのは日本は昔、叡智で、山手線、大阪も大阪環状線ってのを国電の時代からやった。でも、多くの、パリにしてもニューヨークにしてもロンドンにしても、郊外から来る電車はみんなパディントン駅とかグランドセントラルステーションとかでノルド駅とかで停まって、そこからはメトロなんですよね、乗り換えてる。面倒臭いかもしれない。でも、それは一つのファイアーウォールを作っていることなんですよ。そしてまだ、JRとメトロと小田急線が千代田線で繋がったくらいの頃は、それは利便性だったかもしれないけど、今起きてきていることは、東武線と西武線とメトロと東横線と横浜のなんとか線と全部繋がっていて、どっかで一個事故が起きると全部それが連鎖しているというのは・・・これが「集団的自衛権」だと思うんですよ、僕は。勇ましいことを言ってる人もそうでない人も含めて、それは個別的自衛権とか集団的自衛権ていう言葉以前に、それは極めてリスクフルになるっていうこと、なのにそこが分かっていない、んですよね。だから何故ファイアーウォールを沢山設ける一方で、そして隣近所の国だけでなくて海の向こうの国にまで自分達はウォールを作ります、と言ってる人達が一方で「ファイアーウォールを全廃しましょう」っつってる話ですからね。
必ず日本は、この国のカタチばかりいうんです、そしてそれは恐らく司馬遼太郎さんが意図した「この国のカタチ」という言葉では無いものんなってる、何故か?だって、小選挙区制を入れれば政策本位の政治改革になるって全てのメディアが言ったんです。唯一そしてその時に、これが政治改革では無いと一面で政治部長が書いたのは、政治改革の小選挙区の関連三法案通ったときに一面で唯一書いたのは、あろうことか日本経済新聞なんです。それ以外の、今、原発の問題にしても集団的自衛権の事に関しても、仰ってる朝日新聞も毎日新聞も東京新聞も「小選挙区導入こそが政治改革!」と言ったんです。でもそれって何が起きましたか?選挙の度に六割の人が新人と入れ替わってくんです、それは適正なる人が「リボルビング・ドア(回転ドア)」で出たり入ったりするのと全く違って、官僚にとってこんなに、毎回六割新人が入ってくんのは扱い易いことはない、その人達に「財源がこうでございます、法律がこうでございます」と言えばその人達はいとも簡単に思想洗脳被曝をしていく訳です。今まで居た人達はみんな族議員だ、と言う言い方をする人もいますけど、そうではなくてやはり暗黙知を持った感性のある人が経験を積む事によってその役人が言う、あるいはメディアが言う事の嘘が見えるかもしれない、っていうことですよね、だから、カタチばかり言うけど僕は常にこの国のあり方を問わなければいけないし、あり方を示すということが、ステイツマンにもかかわらず目先の形式知のカタチを言ったりここに箇所付けをします、みたいな古いタイプは、それを批判している人達もまさに数字であって、それでは交通整理にはならないポリティシャンなんですよね。だけどその意味で言うとみんな、今語られている事は交通整理にもならないお話で、その意味で言うとある人がこの作品「33年後のなんとなく、クリスタル」をゲラの段階で読んで下さった時に、これこそが逆に言えば、既存の政党や組合や団体や候補者が語っていないマニュフェストなんじゃないか、って。日本のあり方を問う、って仰って下さったのは大変にこそばゆい喜びでしたけどね、ここの作品に書かれてることが、ね。
■「全てがphony(まがいもの)な時代」に
(堀)
私達は、どのようにして自分達を覚醒させていかなきゃいけないんでしょう?
(田中)
だから、覚醒と睡眠と人間は両方あるわけですよ、それは人間じゃなくてウトウトしている時も、ウトウトしながら目覚める時も、ウトウトして寝てしまう時もあるわけで、それは昔は、重厚長大から軽薄短小に行く時もファジーと言ってる、それでみんな分かったような気になってたんですけども、永遠の右肩あがりも無いし、永遠の右肩下がりも無いわけです。ですから片山杜秀さんがこの作品を、僕の今回の作品をみて「なんで一億人維持なのか?」あるいは、皆がその時は日本が最も誇らしかった、と仰ってる「ウソ八百田」さんみたいな方がいる日露戦争ん時は四千七百万でしかない、人口の多寡ではなくて、でもじゃあイタリアやフランスは、とりわけイタリアは明日にも滅びておかしくない、と思われているのに、両国とも人口六千万人前後で、そして貧しい方もいるけど恐らくどんな空威張りの日本論を語っている人も、そこのご飯であったり暮らし向きであったり景色であったりは魅力だ、と言ってるわけでしょ?そういうお手本があるのに未だに大本営発表の話か、それは反対です、といってるだけで、位相を換えたまさに「なんとなく」の新しいものってのを誰も提示していない気がしますね。それはまぁ和辻哲郎じゃないけど、日本は何もしないでも四季があるから、下水作んなくてもペストや、まチフスは・・・あったけどペストは流行らなかった、って済んだっていう、全部四季が洗い流してくれる、って気はしますね。でもそれは「なんとなく」だけどそういうパッシブな「なんとなく」ではなくて、やはり意識も持った上での「なんとなく」。
それともう一つは「phony」っていう言葉がありますよね、「まがいもの」という意味です、フォニーってのはどういう綴りを書くかというと「F」では無くて「P-H-O-N-Y」って書くんですね、「phony」ってのはまがいもの、じゃなんで「P-H-O-N-Y」かと言うと、「phone」から出てきてるわけです。つまり「phone- 電話」であるとか「電磁的」なもの、それは明らかにその人の声が再生されてんだけど、その人はそこにリアルに居るわけでは無い、つまり画面に映ってるもの、あるいは本に書いてある数字も意見も、それは実は面と向かって聞いてるわけでは無いし、あるいは面と向かってこうやって会ってたとしても、相手の側が極めて小さなその中の片言隻句のところで留まってしまってれば、それは「phony」なんですよ。で全てが「phony(まがいもの)」な時代。だから、「リアル書店とネット書店」というような言葉だけでは無くて、私達は常にその中でリアルは何か?ということを、どこかで求めてる、それが自分の好きなご飯を喉を通した瞬間、素敵だと思う服 瞬間、あるいは自分が好きな人は、全て言う事を聞いてくれるわけじゃないけど、その人と肌を合わしている瞬間は、その脆く儚いものがでも、まだもう少し続くように思えるっていうことだと思うんですよ、でも、それももしかしたら「phony」かもしれない・・・ときにまさにそれは自分で考え、自分で語り、自分で動くしかない・・・。私がニコ動で行ってる無料放送は「あとは自分で考えなさい。」ていうタイトルなんですが、そうすると「それは不親切だ」って時折仰る方がいる、とても真面目な方かもしれない、じゃあ私はその人が起きた時から歯磨きの仕方からすべて横についてやらなければならないのか?それぞれ皆考える葦であるならば、どこにヒントを求めるか、であってね、それが出来ない人は「死の町」という言葉に激昂して、「ゴーストタウン」という言葉だったら全く問題無いという、そのまさに「法令順守」とかそれを「コンプライアンス」という言葉で言うんです、と実は言ってる人達も、非常に形式知の、自分達が考えないものになっていく、それはこれだけ高度な消費社会のなかで、誰もが歯車で、誰もが二百歳まで生きられる訳ではない、でもそのなかで私達は単なる自分探しをするんでなくて、出来る人が、出来るときに、出来ることを、出来るところで、出きり限り行う、それは決して偽善でもなくて、ボランティアも着た切り雀でシュラフに包まってなきゃいけないっていうけど、それはもしかしたら客観的言えば、避難所のスペースを0.5人分奪い取ってることかもしれない、家が無事だった人が車に乗ってきたっていいわけ、そしてお金を出すことも知恵を出すことも、汗を流すこともそれに優劣の差が無いわけで、ですから田中康夫の生き方は、私は恋愛も行政も政治もボランティアも人が喜んでくれて自分の喜び「my pleasure」ってことだと思うんです。「my pleasure」って単語は、仮にエレベーターで、もしロサンジェルスの超高層ビルで、あわてて乗ってきた人がいて、その人があわてて降りていくときにドアを自分が、少し時間の余裕があんだったら、押さえて「after you (お先に)」とか「prior(お先に)」って言ったら相手は必ず「thank you」って言ってくれるでしょ、日本は言う人もいなかったりしますけども。でもその時に「my pleasure」ってのは何かってったら「It's my pleasure」で、見知らぬのあなたとたまさかその空間にあって、たまたま私はあなたほどは急いでないから、あなたにお先にどうぞと言ったときにあなたがありがとうと言ったことが、私が良かれと思ってしたことは、あなたも喜ぶに違いない、というのはしっぺ返しを食らう。でもあなたが望んでることは何かとおもって、私が行ったら果せるかなそれが合致をしたときに「my pleasure」。でもしてもらう側は、それをしてもらって当然と思っててはいけないんで「相互扶助」などという、四文字熟語の堅苦しいのとは違って、お互いがお互いに育み合うことが、この、数字がすべてになり、数字に換算できないものは価値ゼロだといってる社会に生きていくなかで、その為政者であったってその経営者であったって供給者であったってその前に一人の消費者なんです、それが私が「国益」などということを声高に語る人は、「国家益」の前に「国民益」が何かを考えなければ、「富国強兵」前にあるべき「富国裕民」というものが決して訪れないと、繰り返し言ってきていることです。そしてそれは多分、1980年に本を書いた時から、今のような言い回しでないけどずっと感じてそのことを書いてきた、でも、それを「POPEYE」で書いたときには「えぇ?!」って言ってた人が、同じことを「朝日ジャーナル」で書くと「こういうのをキミに連載して欲しいと思ってたんだよ」って言う、その前に「こんなのをやりませんか?」ったときに、けんもほろろだった編集長がパーティで寄って来たときに、それがまさにあなたの精神的ブランドから自由になれてない人でしょ、思ったんですけどね。まぁそんなことをずっとやってきてるわけです。(了)
※コンテンツは8bitNewsより
※書き起こしは「非公式●田中康夫●関連ツイまとめANNEX」より引用