【戦国こぼれ話】「最初の天下人」といわれた三好長慶の生涯は、戦いに次ぐ戦いの激しいものだった
「最初の天下人」といわれた三好長慶が来年生誕500年を迎えるので、大阪府高槻市の市民グループが顕彰碑を建立した。さて、三好長慶とは、いったいどんな人物だったのだろうか。
■そもそも三好氏とは
三好氏は阿波小笠原氏の庶流で、阿波国三好郡(徳島県三好市、東みよし町)を本拠とした。南北朝期の三好義長の代に至り、三好の姓を名乗るようになった。
南北朝期以降、三好氏は阿波国三好郡へ移住し、阿波守護だった細川氏に仕えるようになった。以後、三好氏は細川氏の重臣として、阿波支配に貢献したのである。
応仁元年(1467)に応仁・文明の乱がはじまると、三好氏は守護・細川成之のもとで、三好、美馬、板野の支配を任され、強大な権力を握るようになった。
永正3年(1506)、三好之長(ゆきなが)は細川澄元(細川政元の猶子)に仕えるべく上洛を果たした。のちに之長は摂津守護代となり、さらに幕府権力を掌握しようとしたが失敗。細川高国との戦いに敗れて自害した。
之長の孫・元長は、堺に本拠を置く足利義維(よしつな)、細川晴元(澄元の子)と組んで政権奪取を目論んだが、のちに晴元と対立。元長は、一向一揆と河内守護代・木沢長政に敗れて自害したのである。
■三好長慶の登場
三好長慶が生まれたのは、大永2年(1522)のことである。初名は、範長という。父は、先述した阿波や山城で守護代を務めた三好元長である。
先に触れたとおり、天文元年(1532)細川晴元と対立した父・元長は、無念にも顕本寺で自害して果てた。その翌年、弱冠12歳の長慶は晴元と本願寺との講和を斡旋し、その類稀なる才能を発揮した。
さらに天文3年(1534)10月、長慶は木沢長政の仲介によって、仇敵である晴元に仕えることになった。これにより、三好氏は再び息を吹き返した。
その後、長慶は晴元に背くこともあったが和解するなどし、天文8年(1539)には摂津西半国の支配を任され、摂津越水城(西宮市)に本拠を構えた。ここから長慶の快進撃が始まる。
天文11年(1542)、長慶は旧敵の木沢長政を打ち破ると、その5年後には細川氏綱、遊佐長教の連合軍を敗北に追い込んだ。その後、氏綱を擁して晴元から離反すると、天文18年(1549)6月の摂津江口の戦いで晴元を破り、入京して畿内を制圧することになったのだ。
■三好政権の樹立
天文22年(1553)7月、長慶は将軍足利義輝・晴元連合軍を破り、近江へ追放した。こうして、念願の政権を樹立することになったのだ。
長慶の支配領域は、山城、丹波、摂津、和泉、淡路、讃岐、阿波の7ヵ国にも及んでいる。山城は室町幕府の基盤だったので、それが三好政権と称される所以である。
長慶が樹立した政権は、織田信長に先立ち、将軍権力を背景としない権力体だったとの指摘もある。一方で、室町幕府を討滅することなく、温存していたので、その権力体としての限界も指摘されている。
その後も長慶は勢力拡大に努め、河内、大和も併呑するに至った。永禄元年(1558)には義輝と和睦して帰京を許し、本拠を摂津芥川城から河内飯盛山城に移した。この時点で山城国を手放すことになったが、その威勢は畿内に広がっていた。
なお、長慶は豊かな教養を持っており、連歌の名手だったことを付記しておきたい。
■三好氏の衰退
長慶の勢力は拡大する一途であったが、おおむね永禄4年(1561)頃から衰退の兆しを見せ始める。その要因は、配下にあった松永久秀の台頭であった。また、実弟の十河一存、三好義賢が相次いで亡くなったことも大きな痛手だった。
さらに、永禄6年(1563)には嫡子の義興を失うなど大きな打撃を受け、失意の日々を過ごした。長慶が亡くなったのは、永禄7年(1564)7月。飯盛山城で病死したという。享年43。