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【深読み「鎌倉殿の13人」】三浦半島に勢力を持った三浦義澄と三浦氏とは

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
三浦半島は、三浦氏の本拠だった。(写真:takepon/イメージマート)

 大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の2回目は、三浦半島に基盤を置く三浦義澄が登場した。佐藤B作さんがどう演じるのか楽しみだ。今回は、三浦義澄と三浦氏について考えてみよう。

■三浦氏とは

 三浦氏とは、その名が示すように相模国三浦郡に勢力基盤を持った一族である。三浦氏は桓武平氏の流れを汲むとされ、その祖は平為道といわれている(諸説あり)。

 為道は前九年の役で大いに軍功を挙げ、その恩賞として康平6年(1063)に相模国三浦郡を与えられた。

 その居城が衣笠城(神奈川県横須賀市)だったという。三浦氏の権力の源泉は、三浦半島における海上交通の掌握にあった。

 三浦氏の中興の祖が義明(義澄の父)である。義明は、寛治6年(1092)に義継の子として誕生した。義明は三浦大介を称し(のちに子孫は三浦介を世襲)、相模国の在庁官人として活躍した。

 在庁官人とは、諸国の国衙で実務を担った地方の役人である。多くの在庁官人は、地方の有力な豪族が世襲していた。三浦氏は、「介」を名乗るほどの有力者だった。

 重要なことは、三浦氏が源氏と深いかかわりがあったことである。義明は源義朝(頼朝の父)の家人であり、その娘は義朝の妻となり、義平(頼朝の兄)という一子を生んだ。この関係には、大いに注目すべきだろう。

■三浦義澄とは

 大治2年(1127)、義澄は義明の次男として誕生した。義明には、義宗なる嫡男がいたが、長寛2年(1164)に合戦で討ち死にした。

 義澄の「澄」の字は、平(上総)常澄から与えられたという。常澄は義澄が元服したとき、加冠役を務めていた。加冠役とは、元服の儀式で冠を着ける役目の人のことである。

 常澄が加冠役を務めたのには、もちろん理由があった。常澄の子の頼次は、義明の娘を妻として迎えていた。また、義朝に仕えていたのも義明と同じで、2人は強い関係を結んでいたのだ。

 平治元年(1159)、平治の乱が勃発すると、義澄は父の義明とともに義平に従って出陣した。しかし、義朝は無残にも敗北を喫し、三浦父子は這う這うの体で三浦に逃げ帰った。

 以後、三浦氏は平氏に仕え、その求めに応じて京都大番役を務めるなどした。京都大番役とは、内裏や院御所の警護を担当する役のことで、地方の武士が交代で務めていた。

 ときは、すでに平氏の黄金時代になっていた。この頃の義明・義澄父子には、平氏に対して挙兵するなど、微塵も考えが浮かばなかったに違いない。

■むすび

 三浦氏は、頼朝の父・義朝との関係が深かった。しかし、頼朝は流人の身で、平氏は我が世の春を謳歌していた。果たして義明・義澄父子には、いつ「打倒平氏」のスイッチが入ったのだろうか?それはまた、追々述べることにしよう。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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