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【深掘り「鎌倉殿の13人」】源頼朝が任命された征夷大将軍の計り知れない重い価値

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
征夷大将軍に任じられた坂上田村麻呂。(提供:イメージマート)

 大河ドラマ「鎌倉殿の13人」はいったん休憩で、座談会となった。今回は源頼朝が任命された征夷大将軍の計り知れない価値について、詳しく掘り下げてみよう。

■征夷大将軍とは

 征夷大将軍は幕府のトップであり、武家の棟梁である。ところが、その歴史については、ほとんど知られていないように思える。以下、鎌倉時代より前に遡って、詳しく解説してみよう。

 そもそも征夷大将軍とは、蝦夷を討つときに任じられた、総指揮を担当する臨時の職である。養老5年(721)、初めて治比県守(たじひのあがたもり)が任じられた。そのときは「征夷将軍」と称されており、征夷大将軍ではなかった。

 延暦13年(794)、大伴弟麻呂(おおとものおとまろ)が征夷大将軍に任じられ、以降も何度か征夷大将軍が任命された。坂上田村麻呂もその一人である。

 弘仁4年(813)に文屋綿麻呂(ふんやのわたまろ)が最後に征夷大将軍に任じられたが、この頃には蝦夷の平定が終結し、派遣が不要になったからだった。

 元暦元年(1184)、木曽義仲が打倒平家の兵を挙げると、上洛して平家を京都から追い出した。その直後、朝廷は義仲を征夷大将軍に任じたが、それは蝦夷征討の総指揮官を意味しなかった。義仲は平家に代わる武家の棟梁として、権威ある征夷大将軍を希望したのである。

■征夷大将軍を熱望した源頼朝

 同年、義仲は源義経の率いる軍勢に敗れ戦死した。朝廷は頼朝の軍功を称えるべく、「征夷将軍」を授けようとした。ところが、頼朝は朝廷の考えに従う意向を示し、このときは任じられなかった。

 建久3年(1192)3月に後白河法皇が崩御すると、頼朝は晴れて征夷大将軍に任じられた。征夷大将軍は坂上田村麻呂が任官したので、吉例とされた。

 一方で、後白河が頼朝の征夷大将軍就任を拒否し続けたという説もあったが、近年の研究では疑問視する向きもある。

 これまで、頼朝が征夷大将軍に就任したときを鎌倉時代の成立とみなしていたが、現在では文治元年(1185)が有力視されている。以降、征夷大将軍は武家の棟梁を意味し、幕府を開く要件となった。

■まとめ

 頼朝は征夷大将軍に就任したものの、それは世襲を約束されたものではなかった。死後に頼家が家督を継承しても、すぐに征夷大将軍に任じられなかった。しかし、それ以降の征夷大将軍は、武家の棟梁としての大きな意味を持つようになったのである。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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