水中の幽霊屋敷『ザ・ディープ・ハウス』にみる“テクニカルなミス”とは?
幽霊屋敷が水中にあったら、という発想は面白い。お化けは息をしなくて平気だが、人間には酸素が必要だ。ホラーにサバイバルアクションの要素が加わるからだ。
だが、この作品にはそんなアイディアの良さを台無しにするテクニカルなミスがある。
■水中だからこそ必要だった配慮
もの凄く単純なことだ。
主人公の男女のウェットスーツが同色、両方とも黒なのだ。酸素ボンベの色とゴーグルの枠の色だけを手掛かりに、男と女を区別しなければならない。
下の予告編を見てほしい。
水中は暗い。何をしているのか、何が起きているのか、ただでさえわかりにくい。主観ショット(POV)も頻繁だ。
そんな中で目を凝らして、男なのか女なのかを区別しないといけない。区別できないと屋敷の間取りが頭に入って来ず、ひいては物語について行けなくなるからだ。
ミスではなく、わざと同色にしたのかもしれない。見ている方を混乱させる狙いで。わざと見せないで謎を深める、というのはミステリーでよくある手法で、例えば『朝が来る』では謎解きのカギとなる人物の顔をはっきり見せないことによって、結末まで関心を引っ張ることに成功していた。
■見ている者を迷子にしては本末転倒
しかし、だ。
迷路からの脱出劇は、“ここへ行けば出られるのではないか”、と推測できるから面白いのであって、誰がどこにいるのかわからないのでは、興味が薄れドキドキ感が減る。迷子になるのは登場人物たちであって、見ている者を迷子にしてしまっては本末転倒である。
これ、水中でなければまったく問題ない。髪型や衣服で区別がつくし、背景が見えるし、階段を上っているのか下っているのかがわかるから。が、水中では上下の感覚がなくなり、上へ泳いでいるのか、下へ泳いでいるのか、見上げているのか、見下ろしているのかもよくわからない。よって、迷子になりやすい。
■世界的ヒットを目指すなら人種的配慮も
ここは単純にウェットスーツの色を変えて、見ている者のエネルギーをお話に集中させた方が良かったのではないか。誰が何をしているのかを一目瞭然にして、怖がらせる方に注力した方が良かったのではないか。
製作側がわざとわかりにくくしたのだとすれば、そのデメリットがメリットをはるかに上回っていた、と思う。
見ている者の負担を減らすのは重要だ。
もの凄く単純なことだけど、紛らわしい名前や外見は避ける。
人種的な配慮もあった方がいい。
欧米人は東洋人の顔をあまり区別できず、東洋人は欧米人の顔をあまり区別できない。よって、そこは気を回して衣装や髪型でメリハリを付ける。
見ている者のエネルギーを物語へ集中させるために。世界的なヒットを目指すならあってもいい配慮だ。
■映画祭のちんぷんかんぷん作
数年前にサン・セバスティアン映画祭で見た作品の中に、主役の2人の兄弟が双子のようによく似ていて、周りに知られず時々入れ替わるという設定のお話があった。しかも、うち1人はすでに死んでいて、回想シーンがフラッシュバックとして断続的に入り込んでくる――。
ちんぷんかんぷんで途中で理解を放棄しました。この人どっち?ってなってしまって。多分スペイン人の観客はついていけていたと思うけど。
フラッシュバックについても、はっきり映像の色や明暗、トーンで区別している作品もあるし、そうでない作品もある。
セピアや白黒、青みがかかったものが過去の出来事で、明るい自然光が現代の出来事だとか。女のロングヘアがショートになったり、男が髭面になったり七三になったり。ベタだけど、スクリーンはでかくて、字幕を読まなくてはならない側からすれば、本当にありがたい配慮である。
あと、みうらじゅんがスター・ウォーズシリーズは「↓のちのダース・ベイダー」とか注意書きを入れてくれないとわからない、と書いていたけど、その気持ちはよくわかる。自分を省みても、観客の高齢化→認知力低下、という視点からの配慮があってもいいかも、だ。
※『朝が来る』については、ここに書いた。
望まない妊娠をめぐる3つの物語。『朝が来る』『ベイビー』『ネバー、レアリー……』
※写真提供はシッチェス映画祭。