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「ダサくてもよくないですか?」Jリーガーから俳優に転身した青山隼の今

元川悦子スポーツジャーナリスト
今の自分を受け入れ、前進する青山隼(撮影:倉増崇史)

 Jリーガーから俳優に転身した青山隼がいばらの道を歩んでいる。

 彼は1学年下の香川真司(PAOK)と同じFCみやぎバルセロナから2006年に名古屋グランパス入りし、セレッソ大阪、徳島ヴォルティス、浦和レッズでプレーした実績を持つ。U-20日本代表時代には内田篤人(JFAロールモデルコーチ)や槙野智章(浦和)らと年代別ワールドカップ(W杯)で戦ったほどの選手だった。

 将来を嘱望されていた青山は2015年のシーズン途中に27歳の若さでピッチに別れを告げる決断を下した。なぜ彼は俳優になったのか。今は一体どうしているのか。引退から5年が経過した33歳の今を直撃した。

大杉漣さんの存在が俳優転身のきっかけ

「プロサッカー選手を10年間やりましたけど、ずっと不安と葛藤の日々でした。僕は俊さん(中村俊輔=横浜FC)やヤットさん(遠藤保仁=磐田)みたいにチームの中心的な存在でもなかったですし、ちょっと手を抜いたらすぐに外される感じでしたから(苦笑)。危機感を持って現役生活を取り組めた経験は今に活きてますし、こういう人生があっても良くないですか」

 10代の頃、「近未来の代表ボランチ」と大きな期待を集めた青山隼。彼が引退したのは27歳。周りの仲間たちに比べるとかなり早い印象だ。女優の篠ひろ子を伯母に持つこともあり、当時から芸能関係者から誘いを受けていたというが、彼を本気にさせたのは、徳島の熱狂的サポーターだった故・大杉漣さんに影響を受けたのがきっかけだった。

「伯母や伯父(作家の伊集院静)には『サッカーをいつまで続けられるか分からないから、いろんなことに視野を広げて普段から生活しなさい』と言われていました。そんな中、徳島の試合をよく見に来てくださっていた大杉漣さんの存在が頭の中で日に日に大きくなっていったんです。漣さんの作品を見たりして、演じることにどんどん興味が湧いた。人生は一度きりだし、思いきって俳優への転身を決めました」

年代別代表時代の青山隼(写真:YUTAKA/アフロスポーツ)
年代別代表時代の青山隼(写真:YUTAKA/アフロスポーツ)

 芸能界入りしてからも大杉漣さんとの面識はなかったが、ひょんなことから大杉さんの息子・隼平さんと食事をする機会があった。そのことを彼が大杉さんに伝えたところ、『なんでおまえが先に会うんだ。俺がいろんな話を聞きたいのに』と青山との邂逅を心待ちにしていたという。ところが、会食の翌月に大杉さんが急逝。直接的な縁を持つことは叶わなかった。ただ、憧れの人に近づこうという覚悟を改めて心に刻んだ。

「伯母からは『ある程度、サッカーで厳しい経験をしてるだろうけど、芸能界はそんなに甘い世界じゃないからコツコツやることが大事だよ』と言われ、現在の芸能事務所に所属してからは、週1回のペースで養成所に通い始めました。発声練習や早口言葉、呼吸法から始めて、2人1組でのショート演劇など基礎的なことも1年間、学んだんです。

 でも、それ以外は何もない(苦笑)。サッカー選手は週末が試合、それ以外は練習スケジュールが決まっていたけど、俳優は仕事がなければ時間があり余る。正直、ギャップにやられましたね」

俳優転身当初の苦労を笑顔で語る青山隼(撮影:倉増崇史)
俳優転身当初の苦労を笑顔で語る青山隼(撮影:倉増崇史)

 Jリーガー時代の貯金は多少あったが、それを切り崩していたらすぐに底をつく。危機感を抱いた青山は都内繁華街の中華料理店で時給900円のアルバイトを始めた。幼少期からサッカーに邁進してきただけに就業経験は皆無。レジ打ちやメニューの暗記、注文の取り方、料理の配膳や洗い物など、全てが初めて尽くしだった。

「生ビールの入れ方や酎ハイの作り方などを全て1から学びました。高校生のバイトに『隼さん、おしぼりはこうやって片付けるんですよ』と注意され、『すみません!』と謝っていたくらい(苦笑)。でも僕はそういうことを全くダサいと思わなかったし、むしろ楽しかった。家でじっとしてて『ヤベえ、俺、このままどうなっていくんだろう』と考えてるよりかは、ずっとましでしたからね」

NGを20回以上出して「飲み会のネタに」

 俳優生活1年目の2016年は10代をともに過ごした香川や槙野が日本代表で活躍していた頃だ。世界の舞台でプレーする仲間との落差は傍目から見ても明らか。それでも彼は、1つの仕事を獲得する難しさを体感する貴重な時を過ごしていた。サッカー選手はクラブや監督が決めたことをやっていればいいが、俳優は事務所任せにしていても仕事が入ってくるわけではない。現実の厳しさを再認識できたことは彼にとって非常に大きかったのだ。

「迷路に入り込んでいた2016年10月に最初の仕事が決まったんです。それが、HYBRID PROJECT Vol.14 『RANPO chronicle 虚構のペルソナ』という江戸川乱歩原作の舞台。僕の役は妻がいるのに、人形を愛する夫というサイコパスな役。これまでの人生からは想像のできない人物でした。

 最初の稽古では何をしていいのか全く分からなくて、相手役の方に『何、この人?』みたいな目で見られたのがすごく印象に残っています(苦笑)。監督さんが『こいつはサッカーしかやってこなかったから、1つ1つ丁寧に教えてやろう』というスタンスで向き合ってくださって、本当にありがたかったです。僕自身も学んでやろうと貪欲になって、何とか完走しました」

慣れない仕事ではアクシデントの連発だったという(撮影:倉増崇史)
慣れない仕事ではアクシデントの連発だったという(撮影:倉増崇史)

 ほぼ同時期にバラエティー番組「痛快TV・スカッとジャパン」(フジテレビ系)の再現ドラマ出演が舞い込む。役柄はサッカー部員。人生経験を投影できるものだったが、いかんせん映像制作の現場を知らない。舞台にはない複数カメラでの撮影に戸惑い、少なかったセリフを言い間違えたりして、22~23回のNGを出すに至った。

「最後は『今日の飲み会のネタにするから大丈夫ですよ』と言われた。本当にご迷惑をおかけしました」と青山は冷や汗をかいたという。

「サッカーは20年間やりましたけど、俳優はまだ5年。人間なら5歳ですよね。『スカッとジャパン』の時はハイハイしている赤ちゃんがテレビに出されたような感じ(苦笑)。そういう中でも結果を出さなきゃいけないシビアな世界。それを実感できたのはよかったです」

「寺島進さんのような男になりたい」

 その後、テレビドラマやCMにも出るなど、少しずつ仕事が入ってきた。日常生活でも読書や映画鑑賞で自分の幅を広げる努力は地道に続け、サッカー指導のアルバイトも続けている。日々模索中の青山の目指すべき理想の人間像は名バイプレーヤーの寺島進。人情味あふれる駐在さんからチンピラまで幅広くこなす屈指の演技派だ。

「事務所の大々先輩なんですけど、接点は今年から。5月の『駐在刑事』(テレビ東京系)のスペシャルでもご一緒させていただきました。こんな僕にも『寺島進です。今日はよろしくお願いします』と深々とお辞儀されたのにはビックリしました。話していてもとても優しく、何事にも真摯に向き合う姿勢が伝わってきて、人としての器の大きさを痛感させられました。サッカーでもトップでやってる人たちは視野が広くて、周りへの気遣いができる人ばかりですけど、寺島さんはまさにそう。『こういう人間、男になりたい』と今、強く思っています」

いつか味のある俳優になりたいと夢を描く(撮影:倉増崇史)
いつか味のある俳優になりたいと夢を描く(撮影:倉増崇史)

 コロナ禍の今は有名俳優・タレントでも仕事が厳しくなっているという。テレビドラマの話数を減らさざるを得なかったり、制作費の削減によりギャラがこれまでのようにはいかなかったり、出演者数の削減により機会が減ったりなど、凄まじい逆風が吹き上げている。となれば、青山のような実績の少ない俳優や若手はどうしても苦境に立たされることになる。

「でも大変なのは僕だけじゃないですし、みんな同じだと思うんです。自分の場合は今のマネージャーさんに助けられて、今の僕にできることを一生懸命やっていこうと、取り組むようになりました。

 まだ出演作品は舞台・映画・テレビ含めてそんなに多くないですが、『これでやっていける』という実感を得たこともないです。自分としては40歳を1つのラインに設定していますけど、納得できる領域に達するかどうかも分からない。それでも、足元を見つめながらやり続ければ、いつか道は開けるはずだと信じています」

 新たな世界でもがき苦しむ元Jリーガーを見る目は人それぞれだろう。「サッカーを続けていた方がよかったのに」という捉え方もあるかもしれない。けれども、本人は「カッコ悪くてよくないですか。ダサくてよくないですか」とキッパリ。

 それこそが、青山隼の矜持。俳優5年目の33歳は自らの信じる道を突き進んでいく。

■青山隼(あおやま・じゅん)

1988年1月3日、宮城県生まれ。

FCみやぎバルセロナから2006年に名古屋グランパス入りし、セレッソ大阪、徳島ヴォルティス、浦和レッズでプレー。年代別の日本代表にはU-14から招集され、U-16ではキャプテンを務めた。2007年のU―20ワールドカップにも出場。2015年7月に27歳で現役を引退し、俳優へ転身。現在は芸能事務所のジャパン・ミュージックエンターテインメントに所属している。

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スポーツジャーナリスト

1967年長野県松本市生まれ。千葉大学法経学部卒業後、業界紙、夕刊紙記者を経て、94年からフリーに。日本代表は非公開練習でもせっせと通って選手のコメントを取り、アウェー戦も全て現地取材している。ワールドカップは94年アメリカ大会から7回連続で現地へ赴いた。近年は他の競技や環境・インフラなどの取材も手掛ける。

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