『ブギウギ』で描かれる「戦前」はなぜ明るかったのか そこに隠された巧妙な仕掛け
「明るい戦前」を描いて見事な『ブギウギ』
『ブギウギ』は、8週めに入って、やっと時局が描かれるようになった。
ときに昭和14年(1939)の9月である。
この1日にナチスドイツがポーランドに侵攻して、3日にイギリスとフランスが宣戦布告した。ここから世界の情勢が変わっていった。
主人公の福来スズ子(趣里)は東京へ進出して成功し、スイングの女王として活躍している時期である。
ドラマでは昭和14年秋になっても、まあ、大人しくしていれば、何とかしのげるんではないか、という気分が漂っている。
このドラマは「明るい戦前」を描いて異様で、なかなか見事である。
史実と一年ずらしている巧みさ
スズ子が東京へ出てきたのが26話の昭和13年(1938)だった。
旗揚げ公演が大成功して、スターとなった彼女を日宝が引き抜こうとしたのが昭和14年(1939)春である。
羽鳥善一(草彅剛)が奔走して、引き留めた。
ちなみに「松竹」楽劇団のリアルな笠置シヅ子を、リアルに「東宝」へ引き抜こうという動きがあったのは昭和15年(1940)のことだったらしい。
一年ずらしてある。
史実と同じにすると、引き抜きは欧州の大戦勃発以降のことになって、作品の基本トーンに影響するからだろう。
この一年ずらしが、実はドラマ『ブギウギ』の巧妙な仕掛けなのだ。
世相の暗さを徹底して避けている
そもそもの特徴として、『ブギウギ』は朝ドラとしては珍しく「戦争が始まることを前提とした世相の暗さ」をあまり描いていなかった。
これはかなり徹底して、丁寧に避けていたとおもわれる。
一年ずらしもそのための仕掛けだろう。
なかなかの見識である。
誰も「非常時だから」と言わない昭和13年
いちおう昭和13年の春、福来スズ子と秋山美月(伊原六花)が汽車で東京に行くとき、ナレーションは「時代が少しずつ動き出した」とだけ言っている。
同時に、車中で誰かが読んでいる新聞に「国家総動員法の公布」の見出しが見えている。でも見えているだけで、言葉にはされていない。
昭和13年の東京では、楽劇団の成功のためだけにみんな動いており、誰も「非常時だから」とは口にしていない。
この時点で、スズ子のまわりの人は、陸軍のことも、満州のことも、近衛内閣のことも噂していないのだ。
これを見識だというのは、当時、そういう空間も実際にあっただろう、という可能性の問題である。
「暗い戦前」の描写は一億総懺悔のため
この時期の、つまり昭和6年の事変ないしは昭和12年の事変以降の日本国を舞台にした物語では、1930年代を「いけないことが起こる直前の時期」として描かれることが多い。
いわゆる「暗い戦前」の描写である。
それは「米英相手に戦争を始め、徹底的に負けて国がボロボロになる」という暗い未来を前提としているからだ。
そこから遡って、やがて大きくなる暗さの芽を探して、それを拡大して見せてくれる。
「一億総懺悔」という反省のためにはそれもいいだろう。
でも歴史ものとしては、正しくない。
たとえば日本が大勝する未来の予想
たとえば、日本国が戦争でアメリカにもイギリスにも大勝ちして、日本のシステムで(ひょっとしたらドイツ国との共同システムで)戦後世界を牽引していく未来を想像して設定すれば、この時代は暗い時代ではないはずだ。
いまではかなり想像しにくい未来ではあるが、でも、純粋な未来であるかぎりは、当時の人は、日本大敗と同じように、日本大勝を予想していい。
でもだいたいのお話は、登場人物が日本大敗しか予想していない設定になっている。
ある意味ずるい。
「今晩殺されそうだ」と本能寺に入る織田信長
「未来に起こることを登場人物たちが何となく察知している」という歴史ドラマは、あまりまともな大人の作るものとは言えない。
「なんか今晩、殺されそうだ」と呟きながら本能寺に入る信長の物語や、「これ、多分、負けるよな」と言いながら関ヶ原に陣を敷く石田三成の物語を見せられたら、いやいや、演出さん、それを言わせちゃダメでしょう、とおもうのがふつうだ。
でも昭和戦争前の物語では、そういう大人の前提は配慮されない。
信長と違って、まだ歴史になっていないからだろう。
不安を持ちながらも明るい世相
そういう点において、『ブギウギ』の気配は気楽である。
昭和14年春の時点、つまり引き抜き騒動のころは、国家や軍部や大陸での動きについて、誰も話題にしない。
エンタメ界の人と大阪福島の銭湯まわりの人たちは、たぶんときどき噂はしているだろうけれど、興味の中心には置いていない。
こういう気配に説得力があって、ちょっと感心していた。
1930年代の日本人が、どっかに不安を持ちながらも、ふつうに明るかったというのは、私は自分の母から聞いた話から想像しており、そういう風景をおもいうかべていた。
こういう風景がずっと見たかった。
「日本の軍隊は強い」という共通認識
この時代の日本人の共通認識のひとつに「日本の軍隊は、世界でも有数に強い」というものがあった。
それまで対外戦争ではほぼ負けていないのだから、そうおもっても不思議ではない。
その、信頼している軍事的なお役所が、海外で大きな事業を広げているようだが、まあ、まかせておけば大丈夫だろう、という気分で眺めていた人が多かった。はずである。
お役所仕事というか、国の事業に関しての一般人の意識は、いまも変わらない。
まじめに働いている大人は、自分の身のまわりのことでいつも手一杯なのだ。
国レベルの大きなことを人さんに任せきりにしてしまっているのは、いいか悪いかは別として、それがふつうである。
「花の1920年代」の名残りが残る1930年代日本
エンタメ界を舞台にしたドラマだから、そこがより際立つのだろう。
ラジオ文化が始まり、カフェがブームになり、モダンボーイとモダンガールが闊歩していた花の1920年代は、ドラマでは少し前のころ(桃色争議の少し前くらい)になるが、そのころから日本ではモダーンでお洒落な都市生活が始まり、楽しい空間が広がっていった。まあ、都市部だけだけど。
日本のクリスマスの歴史を調べたときも(『愛と狂瀾のメリークリスマス』)、昭和初年のクリスマスの騒ぎぶりは、1980年代バブル期の騒ぎに匹敵する異様さであった。調べていてちょっと引いたくらいである。
「ぼんやりとした不安」を抱えていた人もいただろうが、同時にいままでにない新しい世界が広がっている、とわくわくしている都会人も多かったはずだ。
異様だからこそ見たかったドラマ
笠置シズ子は、モダンの先頭集団にいた。
彼女がエンターテインメント界の真のトップとなるのは終戦後であるが、この1930年代からその先頭のほうを走っており、洋風エンタメの楽しさを存分に体現していた。
それが大阪のお姉ちゃんだったところが、たぶん時代に合っていたのだ。
だから彼女をモデルに据えたドラマでは、敢えて「戦局に巻き込まれていく世相」を登場させなかった。
そういう感覚の人も当時はいたはずだ、という主張だとおもわれる。
「暗くない戦前」はいくつか見たが、「明るい戦前(昭和14年春になっても世相を気にしてない空気)」は私は初めてである。
異様なドラマである。だからこそ見たかったドラマでもある。
これからスズ子苦難の時代が始まる
このあと日本国は、地獄のような世界へと落ちていく。
徐々に悪くなっていった、というこれまでの歴史描写と違い、『ブギウギ』では、煌びやかだった世界があっという間に地の底まで落ちていく姿を描こうとしている。
そういう戦争への視点があってもいいだろう。
スズ子も巻き込まれる。
トップ集団にいた彼女の変化は大きく、彼女は日常そのものから変わってしまう。
だから敢えて昭和14年を過ぎても、煌びやかな世界を描き続けたのだろう。
そのほうが落差を大きく感じられる。
なかなか巧みな仕掛けである。
この先、スズ子の私的な部分がどんどん描かれるターンに入っていくとおもわれる。
世相描写よりも、『わろてんか』へのオマージュ的な展開を期待をしているところだ。