Yahoo!ニュース

早稲田大学6浪目の彼女(24歳)はなぜ6浪するのか

ひとみしょう哲学者・作家・心理コーチ

私は昼間は哲学に依拠した心理コーチングをしていますが、夜は高校生に小論文や国語を教えています。その夜の部に6浪目の早稲田大学志望の女子がいます。もちろん本稿に本当のことを書くわけにはいかないので、本人が特定できないよう事実を改変して書きます。

さて、今回はその彼女がなぜ6浪しているのか、その心の奥底について、哲学の視点からお話したいと思います。じつはあなたの生きづらさに通ずつお話かもしれませんよ。

人生のアウトラインが気になるか否か

ところで、誰しも「限界」をもっています。ある人はどんなに頑張っても偏差値50の大学にしか行けなかった。しかし、本人はそのことを特になんとも思っておらず、楽しく大学生活を送っている。他方、偏差値50の壁を突破して、なんとしても早稲田大学に入学したい人がいます。彼女です。彼女は偏差値50という限界から目をそらそうとしてもどうしても見てしまう。気になってしまう。なぜか見てしまう。だから6年も浪人生活を送っている。毎週金曜の夜に彼女とZoomを通して話す限りにおいて分かることは、たとえば以上のようなことです。

ではなぜ、彼女は自分の限界に目がいってしまうのでしょうか。偏差値50の世界を楽しく生きている人もいるのに。

日の丸は白地に赤

フランスを代表する哲学者にメルロー=ポンティがいます。彼はたとえば、簡単に言えば「図と地」という概念を哲学に持ち込みました。たとえば、日の丸の国旗は白「地」に赤丸があしらわれています。白が地で赤が図です。ここでは白を、あなたの内にあるよき性質。赤がイヤな性質としましょうか。彼女になぞらえていうなら、白は美人かつ倫理観をしっかり持っている優等生的な性質。赤は偏差値50という性質。彼女は6年間ずっと、いやそれ以上の間、赤ばかりを見ています。白を見ていない。あるいは白を見ようと意識しても、なぜか気持ちは赤に向いてしまう。こういうことが言えるでしょう。

他方、偏差値50の世界で楽しく暮らしている人は地、すなわち白を見ており、赤にさほど目がいかない。いったとしても「まあ別にいいや」と思う。この違いって何なのでしょうか。

他人の欲望は他人のものか

これまたフランスを代表する哲学者かつ精神分析家であるジャック・ラカンであれば、他人の欲望を生きているからだと言うかもしれません。つまり、早稲田に行きたいと渇望するのは、「早稲田はすごい」という「世間の評価」をあてにしているからだと言うかもしれません。

私はラカンの「他者の欲望」の洞察を気に入っています。しかし、問題は、それがどうして他者の欲望だと断定できるのかにあります。たしかに「早稲田、すごい」という世間の評価は歴然として存在します。また、私たちは「世間の評価」からまったく独立に生きることはほぼ不可能です。

しかし、世間の評価という理由以外に、彼女を早稲田へと駆り立てるものが他にあるのではないか。私はそう直感しました。

北野武さんの嫉妬

ところで、ラカンの反復強迫の概念を拡大解釈するなら、性格は遺伝的に引き継がれるといえると私は思います。もしそうであるなら、彼女は、偏差値50という限界をもつ血を引き継いだ可能性があります。同時に、偏差値70を超える、なんらか知的好奇心を満たしてくれそうな世界に惹かれる血も、ごく薄く引き継いでいるのかもしれません。その「あるのかないのか」という程度のごく薄い血が、彼女を6浪させているのではないか。なぜなら、私たちは自分の中にまったく存在しないものに興味を示さないからです。

北野武さんがご著書の中で(あるいはNHK Eテレで)、自分は科学者にいまでも嫉妬すると述べていました。彼の数学好きや科学好きは有名で、もう何十年も前から彼はそう言っています。なぜなのか? おそらく学者の血を薄く引いているのだと私は思います。ご兄弟は学者ですからね。ご兄弟のほうに学者の血が濃く流れ、武さんには薄く流れた。その「あるのかないのかよくわからない」ほどの血が、武さんに「もうひとつの人生」を想起させ続ける――。

哲学と生活感覚を組み合わせて考えると、ざっくり言えば、私たちは生まれもったものを生きる限りにおいて、すなわち自分のルーツを知り、それを生きることで、それなりに納得感のある生きざまになるといえると私は考えます。したがって、早稲田6浪目の彼女は、根なし草的な生きざまになっているといえるでしょう。その理由は「薄く引き継いだ血」にあるのではないか。日本ではほとんど流行らないフランス哲学に依拠しつつ、そこに生活感覚を加えたら、そういうことが言えるように思います。(ひとみしょう/哲学者)

※参考:

『知覚の現象学』M.メルロー=ポンティ(みすず書房)1974

「『盗まれた手紙』についてのセミネール」ジャック・ラカン

哲学者・作家・心理コーチ

8歳から「なんか寂しいとは何か」について考えはじめる。独学で哲学することに限界を感じ、42歳で大学の哲学科に入学。キルケゴール哲学に出合い「なんか寂しいとは何か」という問いの答えを発見する。その結果、在学中に哲学エッセイ『自分を愛する方法』『希望を生みだす方法』(ともに玄文社)、小説『鈴虫』が出版された。46歳、特待生&首席で卒業。卒業後、中島義道先生主宰の「哲学塾カント」に入塾。キルケゴールなどの哲学を中島義道先生に、ジャック・ラカンとメルロー=ポンティの思想を福田肇先生に教わる(現在も教わっている)。いくつかの学会に所属。人見アカデミーと人見読解塾を主宰している。

ひとみしょうの最近の記事