あなたの生きづらさと小説が売れない理由に共通するわけとは|残雪と伊集院静
ノーベル文学賞の候補に中国の小説家である残雪の名が挙がっているそうです。大学時代、私は残雪の小説読解の講義を何回もとったので感慨深いものがあります。その残雪の小説は一読しただけでは何を言っているのかよくわからない、そういったものです。しかし、読む解くきっかけを得ると非常によくわかる。例えば、私たちの心には何人もの「もうひとりの自分」が宿っていることがわかります。そしてそれらが理不尽なまでに無秩序に存在していることもわかります。
さて、あなたの生きづらさと小説が売れない理由にはある共通点があります。そのことについて、哲学的視点からお話したいと思います。
伊集院静さんの人生哲学
先日、このYahoo!ニュースを読んでいたら西山繭子さんのお名前を目にしました。一時期、私は西山さんと同じ媒体に連載をもっていたので、どことなく懐かしく、記事全文を読みました(もっとも、西山さんは私のことをご存知ないと思いますが)。そこには西山さんのお父様である伊集院静さんのことが書かれていました。すなわち、伊集院静さんは思うようにいかない人生に寄り添うかのごとく小説を書いていた、と――。例えば、私が高校生の頃から愛読している「乳房」「クレープ」といった短編小説はその典型だ、とも書かれていました。
いつの時代も、だれの人生も、思うにまかせないものですが、現代人はそれを意思の力でどうにかしようとする傾向が非常に強い。それでどうにかなるのなら、それでいいのだろうと思います。頑張ればどうにかなることを眼前に、なにも情緒的に苦悩する必要はないからです。
しかし、どう努力してもどうにもならないことが人生にはあります。例えば、伊集院静さんは若い頃弟を亡くし、その後、最愛の妻を亡くしました。ご本人にはどうすることもできない。ただ潮流に流される我が人生を憂うしかない。
ある種の哲学は運命を哲学している
そのことを哲学的に言うなら、例えば、人生はなんらかの構造に支配されている、となります。構造という言い方がしっくりこないのなら運命と言い換えてもいいでしょう。
え? ああ、そうです。ある種の哲学は運命を哲学してるんです。より正確に言うなら、科学的に把捉できないことを取り上げて、どのように考えても私たちの人生はそうあると言わざるを得ない(そう言える、ではなく、そう言わざるを得ない)という、思考の及ぶ究極まで考え抜く。その結果、例えば運命という言葉を使って説明するしかない、ということです。わかりやすく言い換えれば運命であって、運命という言葉を使っている哲学者を私は、寡聞にして知りませんが。
生きづらさが萌芽する理由
残雪の「複数のもうひとりの自分」にしろ、伊集院静さんの「どう努力しても思うにまかせない我が人生」にしろ、そういったものを直視することを現代人は嫌います。政治経済の問題が山積されていても、朝から千葉県の超有名遊園地の情報をテレビで流す国ですから、わかりやすく、おしゃれで楽しく、より頭を使わないことが「善」であり、わかりづらいものや暗いもの、ハードなものは「悪」。人々はそう思って目を背けます。
だから、生きづらさが萌芽するのです。
明るい世界だけで、意思の世界だけで、人生を把捉しようと思っても、それは無理というもの。なぜなら明暗併せ持つものが人生だからです。
小説は人生の「暗」を直視し、それを情緒的に描きます。伊集院さんは日本人好みするテイストでそれを描く稀有な才能をお持ちでしたから人気作家になった。他方、哲学はその「暗」の構造がどうなっているのかをあぶり出そうとします。そして、人生はこうなっている、ではなく、人生はこうなっていざるをえない、という究極の地点まで考え抜きます。いえ、私が考え抜いているのではないですよ。おちこぼれの哲学者の脳はそうたいしたことないですから。そうではなくて、例えばキルケゴールやジャック・ラカン、メルロー=ポンティといった天才たちは究極まで考えました。
わかりづらいものや暗いものがあなたの心に宿っています。そこから目を背ける人が多いので、小説は売れないし、あなたは生きづらいし、哲学が流行らなくて私も生きづらいのです。