秋になると寂しい気持ちになる理由「科学の世界の外側」
秋になると悲しい気持ちになる理由をGoogleで検索すると、上の方に出てくる検索結果はセロトニンにその理由を求めています。すなわち日照時間の減少により体内時計が乱れる。するとセロトニンなどの神経伝達物質のバランスが崩れる。その結果、感情が窯変する。
あるいは、これは私の考えに近い考えですが、秋になると心に余白が生まれるからもの悲しい気持ちになると主張する科学者もいます。つまり、ハワイに哲学書を持参してもただの1行たりとも読めないのと同じです。夏はあれこれと刺激や誘惑があるので、それに応えるだけで忙しいし、それだけで充実している気分になる。しかし、秋になると太陽の日差しも弱まり、ビーチからはほとんど裸のようなビキニ姿のおねえさんたちも消え去り、それこそ余白が生まれます。すると途端に、この世に生まれてきた意味や、元カレ・元カノのことや、年々老いていく両親のことなどが想起され、もの悲しくなるといった塩梅。
空が高すぎる
哲学の見地から言えば、まず、私たちはそこに存在しているもの以上のものをなぜか見てしまうということが言えるでしょう。なぜかそういったクセを私たちの身体は持っている。例えば、廃墟というのは、例えばボロボロの病院であり、ボロボロの家であり、今にも崩れそうなホテルのことです。特にそれ以上のものはありません。しかし、そこに幽霊がいそうな気がするとか、誰かがいそうな気がすると私たちは直感することがあります。つまり、目の前にあるもの以上のものを私たちはなぜか見てしまう。
秋になると寂しい気持ちになるのもそれと同じで、目の前にあるのは、例えばただの高い空です。その空の高さに何らかをなぜか見てしまうから寂しい気持ちになる。小田和正さんの名曲「空が高すぎる」は、以上のようなロジックに支えられているはずです。つまり、小田さんは高い空という実際に存在しているものを見つつ、そこにそれ以上のものを見たから、あれだけの歌詞が書けたのでしょう。
真に知らないものには感じようがない
さて、ではなぜ私たちは実際に存在しているもの以上のものをそこに見てしまうのでしょうか? メルロー=ポンティであれば、空の高さがもの悲しさを発出しており、それに私たちの身体が反応した結果、私たちがもともと持っているもの悲しさが発出したからだというかもしれません。彼はモノも何らかメッセージを発しており、私たちの身体はそれに応えると主張しているからです。
例えば、ふたたび廃墟。モノであるボロボロの病院に幽霊がいると直感するというのは、廃墟である病院が私たちに「幽霊がいます」というインフォメーションを発しており、かつ私たちの身体がそのインフォメーションに反応するから、そこに幽霊がいると私たちは直感するのだと――。
つまり、「そう見える」というのは「それ」が私たちの心の中にすでにして存在しているから「そう」見えるということです。「モーツァルトの音楽は人間より偉い人が書いたとしか思えない」と世界的指揮者の小澤征爾さんはかつて言いましたが、それは小澤さんの心の中にも人間より偉い存在がいるから――控えめに言うなら、小澤さんが人間より偉い存在に意識的だからそう聞こえる。それと同じで、外にあるものと内にあるものが何らか等号でおのずと結ばれるから、私たちは「それ以上のもの」をそこに見てしまう。こういったことが言えるように思います。
科学の外側の世界
秋になると寂しくなるのは、秋が含み持つ寂しさと同等のものを私たちがすでにして持っており、それが秋の寂しさと呼応しあうから寂しく感じる。こういうことが言えると私は思います。
では、私たちがすでにして持っている寂しさとは何か? おそらく形而上学なものを措定しないと語れない何らかだと私は思います。私たちが言葉を持ってしまったゆえに「そう」言えるけど、しかし「それ」が何なのかよくわからないもの。つまり科学では語れない何らかが心の中にあると仮定しないと語れない何かでしょう。キルケゴールの「永遠」のような。(ひとみしょう/哲学者)