東日本大震災から12年 苦難の中で開催されたセンバツでは、どんな出来事があったのか?
東日本大震災発生から12年が経った。センバツの開幕を目前に控え、賛否両論ある中での開催だったことを記憶されている方も多いだろう。被災地へ思いを寄せつつ、改めて当時の出来事を振り返ってみたい。(肩書や学年は当時)
「がんばろう!!日本」をスローガンに
震災発生直後は、被災地からの出場校の安全確保に問題があり、「野球どころではない」という世間の声にも配慮して、「中止やむなし」の声はかなりあった。しかしセンバツは、甲子園がまさに被災地だった平成7(1995)年の阪神淡路大震災時にも開催していた。そして「がんばろう!!日本」のスローガンを掲げたセンバツから、球児たちが素晴らしいメッセージを全国へ届け、大人たちの心配は杞憂に終わった。
東北が最後の試合に登場
開幕8日前の抽選会には、今大会も出場している東北(宮城)が欠席した。この段階で、開催は正式決定していなかった。
前日の主将トークでは出席者全員による黙祷が捧げられ、イベント後の食事会には、水城(茨城)の飛田知希主将が遅れて参加した。彼が姿を見せると主将たちの表情が変わり、彼の挨拶が終わると、期せずして会場が大きな拍手に包まれたことを鮮明に記憶している。抽選会は31校主将で行い、東北は日程に配慮して最後の登場となる6日目の第1試合に組み込まれた。開催が正式に決まったのは抽選会の3日後だった。
創志学園・野山主将の感動的宣誓
開会式では、唯一の下級生主将だった創志学園(岡山)の野山慎介選手(2年)が素晴らしい宣誓をした。「私たちは、16年前、阪神淡路大震災の年に生まれました。今、東日本大震災で、多くの尊い命が奪われ、私たちの心は悲しみでいっぱいです。(中略)人は、仲間に支えられることで大きな困難を乗り越えることができると信じています。私たちに今、できること。それは、この大会を精一杯、元気を出して戦うことです。『がんばろう!!日本』。生かされている命に感謝し、全身全霊で、正々堂々とプレーすることを誓います」。永遠に語り継がれるシーンだ。
東北は初戦で大垣日大に完敗
東北は調整不足もあって、初戦で大垣日大(岐阜)に0-7で完敗した。大垣日大の阪口慶三監督(78)の「選手たちも心を痛めているはず。だから敢えて、被災地のチームとは(選手たちに)言っていない。どことやっても全力で戦う。手を抜いたらかえって相手に失礼」というコメントが印象に残っている。両校は今大会も出場する。ひそかに対戦を期待していたが、当たるとすれば決勝までない。そして東北は皮肉にも、12年前とは「真逆」の開幕戦に登場する。
翌年は被災地の主将が選手宣誓
翌年はさらに感動的な出来事があった。主将トークの前に、被災地への思いを込めて、主将全員で寄せ書きをした(12年3月14日=タイトル写真)。そして抽選会では、被災地から21世紀枠で出場した石巻工(宮城)の阿部翔人主将が32分の1の確率の選手宣誓を引き当てたのだ。抽選会で主将たちは2列で着席している。筆者が立つ演台に最も近いのが北海道の主将で、東北勢も目の前。「それでは封筒を開けてください」と筆者が話すと、すぐさま目の前の阿部主将が手を挙げた。間髪を入れず「選手宣誓は石巻工業の阿部君に決まりました」と言うと、取材陣からも拍手が沸き起こるほど、会場全体が盛り上がったことは言うまでもない。(ちなみにタイトル写真で旗を持つ4人のうち、右から2人目が阿部主将である)
筆者のインタビューに「100点満点」と
「日本がひとつになり、その苦難を乗り越えることができれば、その先に必ず大きな幸せが待っていると信じています。だからこそ、日本中に届けます。感動、勇気、そして笑顔を」(抜粋)。阿部主将の宣誓文には、被災者でしかわからないような心情が存分に表現されていて、被災地の思いをすべて代弁していた。これほど中身の濃いメッセージは見当たらない。開会式当日、「100点満点。全国に思いが届いたと思う」と筆者のインタビューに目を輝かせていた阿部さんは、大学卒業後、地元の宮城で高校教諭になったと聞く。
苦難を乗り越えた先の幸せを実感
阿部さんは現在28歳。この大会に出場していた花巻東(岩手)の大谷翔平(エンゼルス)や大阪桐蔭・藤浪晋太郎(アスレチックス)と同い年になる。震災の年のセンバツに出た3年生は今年で30歳になり、社会人としても働き盛りにさしかかる年代だ。甲子園のある兵庫・西宮市で阪神淡路大震災を体験した筆者も、苦難の中で開催された当時のセンバツを、片時も忘れたことがない。コロナ禍からの出口が見え始めた特別な日に、阿部さんの「苦難を乗り越えることができれば、その先に必ず大きな幸せが待っている」という言葉の重みを実感している。