【深掘り「鎌倉殿の13人」】源頼家に寄生虫のごとくがっちり食い込んだ比企能員の狙い
大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の30回目では、比企能員の暗躍が描かれていた。能員の狙いについて、詳しく掘り下げてみよう。
■源頼朝が重用した比企一族
平治の乱後、源頼朝は父の義朝を殺されたうえに伊豆に流された。頼朝は流人になったとはいえ、伊豆で禁獄されることもなく、緩やかな監視下のもとで生活できた。そして、決して孤独ではなかった。
頼朝の生活を支えたのは、乳母を務めていた比企尼だった。比企尼は伊豆に流された頼朝に対して、経済的な援助を行っていたという。頼朝にとって、力強い支援者だった。
比企尼の娘は、安達盛長と結婚した。比企尼は盛長を伊豆へと送り込み、頼朝への奉仕を命じた。また、比企尼のもう一人の娘は、河越重頼の妻となった。
比企尼の2人の娘が産んだ女子は、それぞれ頼朝の弟の範頼、義経に嫁いでいた。つまり、比企一族は乳母あるいは婚姻を通して、源家にがっちりと食い込んでいたのである。
■比企能員と源頼家
寿永元年(1182)8月、頼朝の嫡男・頼家が誕生すると、比企能員は乳父となった。能員の妻、重頼の妻も頼家の養育に携わることになった。これにより、比企一族は次期「鎌倉殿」の頼家にがっちりと食い込んだのだ。
現代社会なら公私混同と言われかねないが、当時は婚姻関係を通して濃密な関係を築くのは、当然のことだったのである。
それだけではない。能員の子の三郎と時員は、頼家の近習として登用された。これは、頼家が「13人の合議制」に反発して設けたものである。能員の関与があったのかもしれない。
頼家は蹴鞠に熱心だったが、時員は必ずほかの近習とともに相手をし、時に酒席を同じくすることもあった。建仁元年(1201)、頼家が猟犬を飼うと、時員は飼育係を任された。こうして能員、時員ら比企一族は、総力を挙げて頼家にがっちりと食い込んだ。
一方で、頼家は北条政子の子でもあったのだから、北条一族が強い危機感を抱いたのは致し方ない。こうして比企一族と北条一族は、対立的な様相を深めていくのである。
■まとめ
能員の目的は、どこにあったのか。むろん、能員が頼家を差し置いて、鎌倉殿になれるわけがない。能員は頼家の後見としてサポートし、幕府内で主導権を握ろうとしたのだろう。
しかし、能員はあまりにやり過ぎたので、北条一族や御家人から猛反発を食らうのである。