― 戦力外通告 第2弾 ― 玉置隆投手、11年間ありがとうございました《阪神ファーム》
20日の阪神鳴尾浜球場では、フェニックス・リーグに参加していない選手たちの練習が、いつも通り行われていました。休日前の18日と違っていたのは、田上選手が打撃練習に入らず外野で打球を追っていたこと。また投手陣の輪に玉置投手の姿がなかったことです。球団広報から『玉置隆選手(29)、田上健一選手(27)に対して、来季の契約を結ばないことを伝えました』とのメールが届いたのは、19日の夜。これが“第2弾”ということになるのでしょうか。
玉置投手はスーツ姿で球場を訪れ、寮内やウエートルームでみんなに挨拶して引き揚げていきました。きょう21日から、田上選手や今月初めに通告を受けた加藤投手、黒瀬選手とともに現役続行を目指して練習を再開しています。ユニホームの上着はありませんが、ファンの皆さまはスタンドからでもわかりますよね。トライアウトまで、どうぞ見守ってください。
「楽しい思い出しかないんですよ」
2004年のドラフト9位で阪神に入団して、ことしが11年目だった玉置投手。18日の練習後に電話があり、19日朝に通告を受けたそうです。記者陣での囲み取材で現役続行とトライアウト受験を明言。「ショックはあったけど、スッキリという気持ちも。体は元気だし自信もあるので、それならやってみようと思いました。親もやってほしいと言っています。奥さんもサッパリした感じですね。迷惑をかけるでしょうけど、支えてもらいます」
その後、帰る前に少し話を聞きました。自分自身の希望も込めて、ことしの戦力外はもうないかなと思っていたのでビックリしたと言ったら「うーん、僕はわかっていましたね」と彼らしいクールな回答。でも気持ちの切り替えには時間がかかったでしょう?「大丈夫です。もう切り替えできていますよ。意外とスッキリしています」。本当に爽やかな表情に見えました。
タイガースで過ごした11年間を振り返り「僕、ほんまに楽しい思い出しかないんですよ」と言います。「1軍でやればやるほど、しんどいとか辛いことが増えると思いますけど。僕の場合、優しい先輩方や慕ってくれる後輩がいて、厳しい世界の中で、表現はおかしいかもしれませんが楽しかったですねえ」。練習中でも常に大きな声で周りを元気づけ、盛り上げ、いつからかそうなったのか『隊長』という呼び名はファンの方々にもおなじみですね。
思い出は後輩・川端選手との対戦
そんな玉置投手にとって一番の思い出は?「後輩の慎吾との対戦かなあ。あれが一番楽しかった」と頬が緩みます。市立和歌山商業高校(現在は市立和歌山高校)の1つ後輩である、ヤクルト・川端慎吾選手と1軍で相対した時のこと。結果は?「2の1でした」。じゃあ五分五分ですね。「いや、長打を打たれたので僕の負け。三振を取っとけばよかった(笑)」
対戦は2013年の終盤で、どちらも皆さんの記憶に残っているであろう試合です。まず初顔合わせだったのが9月15日の神宮球場。そう、ヤクルトのバレンティン選手が1回にいきなり日本新記録となる56号ホームランを放って、3回の2打席目で第57号と記録を更新した、あの試合です。7安打5失点で降板した榎田投手に代わり、3回途中でマウンドに上がった玉置投手。1回1/3を投げ、2番サードの川端選手に浴びた右二塁打を含む2安打で無失点でした。
同じ2013年10月4日(神宮)が2度目の対戦で、この時はヤクルト・宮本慎也選手の引退試合。メッセンジャー投手が7回まで投げ、8回から玉置投手が登板しています。川端選手は9回の先頭で(三振じゃなかったのは悔しいけど)打ち取って、2イニングを投げ1安打無失点。延長戦を阪神が制し、松田投手にプロ初白星!という試合だったんですね。
玉置投手のお兄さんに確認したら、マウンドの玉置投手と打席に立つ川端選手の両方が写った、テレビ画面の写真を送ってくださいました。ありがとうございます!
自身で感じてしまった弱さ
玉置投手といえば、入団当初からスライダーと言われ続けた“カーブ”(今は本人もスライダーとコメントしています)、これまた誰もがフォークと呼ぶ“チェンジアップ”が印象的ですね。「握りはフォークなので、フォークといえばフォークなんですけど…自分の中ではチェンジアップ」という、その球は中日の谷哲也選手(30)が超苦手としていました。何度も書いたのでご存じの方もあるでしょう。詳しくは昨年3月19日の記事をご覧ください。
「マエケンのスライダーよりも打てない、玉置のチェンジアップ」なんていう名言を残してくれた谷選手が「今シーズンはキレがなくなってきたかも」と思ったみたいです。それは玉置投手自身も感じていたとか。いつから?「去年…いや今年ですかね。攻めていけない。必死に1点を守りにいくけど、若い頃の自分とは違うピッチングに年々なってきていました。何とかせな、と思って逆に弱くなってしまった。守りに入ったら…ダメですね」
だけど、今も強く残るという「不甲斐なさと悔しさ」をバネに、自らをもう一度奮い立たせます。たとえ遠くであろうと「どこでもついてきてくれると言っています」という奥さんと、ことし生まれたばかりの愛娘のためにも、強い玉置投手を見せてください!3年前くらいだったか「いつでも三振は取れますよ」って強気な言葉が記憶に残っています。「え、そんなこと言ってたんですか?やばいっすねえ(笑)」。それくらいの奪三振率でしたから、決して大口ではありません。
ケガを乗り越えて、鳴尾浜の守護神に
あと強烈に覚えているのは、2年越しで記録した連続試合無失点です。2009年の3月、オープン戦で右ヒジを痛めて同10月に手術。翌年から育成契約となり、3シーズン目に入った2012年夏のことでした。開幕してからずっと点を取られていなかった玉置投手は、7月16日のオリックス17回戦で1イニングを0点に抑え「1点取られたら終わりなんで、とにかく0でいきたい」と話していた2日後、18日のオリックス19回戦(鳴尾浜)で5回に登板し、ついに失点してしまいます。
しかし、2011年8月26日の中日21回戦(鳴尾浜)から2012年7月16日のオリックス17回戦(鳴尾浜)まで、ウエスタン・リーグ公式戦のみならず、育成試合などの非公式戦をすべて合わせて37試合(36イニング)連続無失点!公式戦だけなら2011年6月23日から22試合、17回と3分の1イニング連続無失点だったわけです。その甲斐あってオールスター明けの7月24日、再び支配下選手に戻っています。いろんなことがありましたね。
「ケガは自分のせい。誰も責められない。それでも残してくれた球団に感謝しています。でないと11年もできなかった。感謝の気持ちでいっぱいです」
お母さんにまだ“渡せていない”宿題
感謝の思いは、ここまで支えてもらったお母さん、お兄さんにも改めて伝えたようです。でも、よく鳴尾浜に来られていたお母さんは、やっぱりショックを受けられたでしょう?「そうですねえ。気丈にふるまってくれていましたけど、実際は…。僕にとって母親が、野球を続けようと思う理由の1つでもありますから」。1軍に昇格した際、何度か甲子園へも行かれたお母さんなのに、お兄さんいわく「その日に限って出ないパターン」で、まだ生観戦はありません。
お兄さんは「残念でショックですけど、本人が落ち込んでいなかったので母も僕も前向きに考えています。やはり母親に1軍での姿を見せてやりたいという思いがあるんでしょう。『親愛なるあなたへ』を、他球場でも聴かせられるように頑張ってほしいです」とおっしゃいました。たとえユニホームと球場が変わっても、そのテーマソングをお母さんに聴いてもらうことが玉置投手の宿題ですね。<鳴尾浜の守護神から甲子園の守護神へ― 10年目の勝負 玉置隆投手>
そして、やり残したことはもう1つ。1軍での白星です。鳴尾浜の皆さんも、既にタイガースのユニホームを脱いだ選手たちもみんな、玉置投手が夢に向かって走り続けてくれると信じています。
最後に、タイガースでの11年間を振り返り、こんなふうに話していました。
「いろんな経験をさせてもらって野球選手として成長できたし、人間としても成長できたと思っています。高校から入って、いっぱい怒られて…いっぱい教えてもらって…。だから今の自分があります」