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【中世こぼれ話】鎌倉時代に日本を襲った、寛喜の大飢饉について検証してみる

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
ソマリアの飢餓。鎌倉時代にも大飢饉があった。(写真:ロイター/アフロ)

 国連によると、2030年までに飢餓や栄養不良を終息させることが難しいという。飢餓は、世界共通の課題である。ところで、鎌倉時代に日本を襲った寛喜の大飢饉をご存じだろうか。今回は、この飢饉を紹介することにしよう。

 寛喜の大飢饉とは寛喜2・3年(1230・31)に発生した大飢饉で、日本の歴史上でも稀有な天災だった。実は、この大飢饉の前年から不順な天候が続いており、その難を避けるべく改元が行われ、安貞から寛喜へと年号が変わった。ところが、年号が変わっても、飢饉が回避されることはなかった。

 寛喜2年(1230)6月、武蔵国金子郷(埼玉県入間市)と美濃国蒔田荘(岐阜県大垣市)は異常気象で、初夏にもかかわらず降雪があったという。不幸なことに、この年の夏は冷夏と長雨が続き、同年7月には霜降、8月には大洪水と暴風雨が襲来し、例年にない強い冷え込みが日本列島を襲った。冷害により農作物は大きな被害を受け、収穫に悪影響をもたらした。

 寛喜2年(1230)の天候不順による農作物の収穫量の減少のため、翌年はわずかに残った備蓄穀物を食べ尽くし、全国的に餓死者が続出したのである。厳しい飢餓で人々は死に絶え、人口の3分の1が失われたという。

 翌寛喜3年(1231)は一転して激しい猛暑に見舞われ、旱魃が農民を苦しめた。早い段階で種籾すら食したので、作付けが困難になる不幸にも見舞われたのだ。

 同年9月には北陸道と四国が深刻な凶作となり、京都や鎌倉といった都市部には生活困窮者が流入した。『明月記』(藤原定家の日記)には、餓死者の死臭が漂ってきたという生々しい記述がある。餓死者が激増したため、幕府は備蓄米を放出した。さらに年号を貞永に改め、鶴岡八幡宮(神奈川県鎌倉市)などで国土豊年の祈禱が執り行われた。

 大飢饉で庶民の生活は困窮した。問題となったのが、自分はもとより妻子までも売るという、人身売買が続発したことだ(自分を売るとは、自ら奴隷になること)。これまで人身売買を禁じてきた幕府は対応を迫られ、苦境に立たされることになる。その事実を示すものが、次に掲出する法令であった。

寛喜3年(1231)に餓死者が続出したため、飢人として富家の奴婢になった者については、主人の養育した功労を認め、その奴婢になることを認める(人身売買の許可)。人身売買は、その罪が実に重いものである。しかし、飢饉の年に限っては、許可するところである。ただし、飢饉のときの安い値段で、売主が買主から奴婢を買い戻す訴えを起こすことはいわれないことである、両者が話し合って合意し、現在の値段で奴婢を返還することは差し支えない。

 幕府は出挙米を供出するなど対策を行ったが、人身売買を許可せざるを得なかった。しかし、それは飢饉の年のみという時限立法の措置だった。恒久的な措置でなかったことに注意すべきで、人身売買の罪の重さを認識していた。そして、法令の後半部分では、予測されるトラブルを避けるための配慮もしたが、この措置はのちに幕府を悩ませる。

 この法令は寛喜3年(1231)の大飢饉から8年後の延応元年(1239)4月17日に発布されたものだが、この段階でも人身売買をめぐる問題は深刻だった。同年5月には、幕府が人身売買を禁止した様子がうかがえる(『吾妻鏡』)。

 その背景として、幕府は寛喜3年(1231)の大飢饉で人身売買を認めたものの、妻子や所従を売買したり、あるいは自ら富家の家に身を置く者が跡を絶たなかったという事情があった。それに伴う訴訟も増加していた。こうした問題を受けて、同年5月1日には六波羅探題に向けてある指示がなされた。

 それは訴訟で扱う範囲のことで、訴人(原告)と論人(被告)が京都の者であれは、幕府が関与しないという原則である。関東御家人と京都の者との裁判の場合は、幕府が定める法によって裁きを行うことになった。そして、最後の結びでは、改めて人身売買を禁止する旨の言葉で締め括られている。

 同年5月6日には幕府の下文が発給され、「綸旨」に任せ人身売買を禁止する旨が伝えられた。つまり、朝廷としても大飢饉以来の悪習を断ち切りたいと考えていたのである。

 一連の流れを考慮すると、寛喜3年(1231)の大飢饉を契機にして人身売買が常態化し、トラブルや訴訟が増加した様子をうかがえる。あくまで時限立法であったはずが、ことはうまく運ばなかったのである。その流れは、決して止むことがなかった。

 いずれにしても、食糧危機や飢饉は非常に怖い。国連の報告を待つまでもなく、私たちも真剣に考える時期に来ているようだ。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『蔦屋重三郎と江戸メディア史』星海社新書『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房など多数。

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