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【駅の旅】駅前には廃屋と獣道だけ、究極の秘境駅?!/JR土讃線・坪尻(つぼじり)駅(徳島県)

たった一両の列車は徳島と香川の県境の山の中へ

 吉野川は四国随一の大河である。この川は支流を合わせると四国四県にまたがっており、古来より、関東の坂東太郎(利根川)、九州の筑紫次郎(筑後川)と並んで、四国三郎の異名を持つ暴れ川としても有名であった。今は寒空の下、ゆったりとした流れを見せてくれている。

 ある寒い日の午後、阿波池田を出た土讃線のたった一両だけの上り普通列車は鉄橋を渡ると、大きく左にカーブしながら急な坂を登り始めた。左下に今、渡ったばかりの吉野川の鉄橋が見える。箸蔵(はしくら)を過ぎると、さらに雄大なパノラマが車窓に広がる。あたりが少し明るくなってきた。列車は再び徳島県と香川県の県境に位置する深い山中へと入っていく。

ひっそりとたたずむスイッチバック駅

 いくつかのトンネルを抜け、列車は徐行しながら坪尻に着いた。この駅の先に線路はない。駅に着く手前で本線から左に分かれ、スイッチバックするのだ。土讃線には、急勾配にある坪尻と新改(しんがい)の2つの駅がスイッチバックになっている。あたりには湿り気のあるボタン雪が降っており、薄っすらと雪化粧をしている。深い山の中、そこには、ただ、古い木造駅舎だけがひっそりとたたずんでいるばかりだった。

坪尻駅に着いた上り多度津(たどつ)行の普通列車。このあと、一旦バックし、さらに向きを変えて右側のトンネルの中に消えた。
坪尻駅に着いた上り多度津(たどつ)行の普通列車。このあと、一旦バックし、さらに向きを変えて右側のトンネルの中に消えた。

 この駅で降りたのは筆者ひとり。もちろん駅員はおらず、ほかに乗り降りする客もいない。反対列車が通過した後、乗ってきた列車が逆方向に発車した。数百メートル先ですぐに停車し、もう一度、進行方向を変えると、駅舎の前の上り坂の本線を通り、トンネルの中に消えた。この駅に停車する列車は、上り4本、下り3本だけしかない。通過する普通列車も多く、単線区間の列車のすれ違いのための信号場のような性格の駅なのだ。

この駅舎にも1975(昭和45)年までは駅員が勤務していた。それなりに利用者がいたのだろう。
この駅舎にも1975(昭和45)年までは駅員が勤務していた。それなりに利用者がいたのだろう。

廃屋と獣道しかない駅で、たったひとりの雪見酒

 ひとりぼっちになった。あたりには商店も人家なく、もちろん客待ちのタクシーもいない。それどころか町に通じる道すらなかった。駅舎の前には「マムシに注意」という看板があった。今では近くに集落もなく、駅舎はマムシや獣しかいないような山の中にひっそりと建っていた。

駅前にポツンと立っていた看板。このほかに案内板などは一切なかった。
駅前にポツンと立っていた看板。このほかに案内板などは一切なかった。

 線路の向こうに一軒の廃屋があった。扉が壊れていたので中をのぞくと、靴や家財道具が散乱している。この家の主はいったい、いつのころまで住んでいたのだろうか。その住人がこの駅の最後のまともな利用者だったかもしれない。小さな川の流れの音がする。上に続く廃屋の脇の道を登ろうかと思ったが、覆いかぶさった木々から水滴がポタポタと落ちてくる。地面の草も濡れており、ビシャ濡れになりそうなので、登るのをやめた。その道は、もはや獣道のように完全に自然に帰っていた。

駅前に唯一残されていた廃屋。この家に人が住んでいたのはいつまでだったのだろう。
駅前に唯一残されていた廃屋。この家に人が住んでいたのはいつまでだったのだろう。

 やがて、トンネルの向こうから警笛が聞こえ、下りの特急列車が目の前を疾走した。通過する列車は本線上を真っ直ぐに走るので、特急列車の乗客はこのスイッチバック駅に気づくことはないだろう。

やがて、高知と岡山を結ぶ特急「南風」が高速で通過する。特急の乗客でこの駅の存在に気がつく人は少ないだろう。
やがて、高知と岡山を結ぶ特急「南風」が高速で通過する。特急の乗客でこの駅の存在に気がつく人は少ないだろう。

 雪が止んだ。筆者はホームの木のベンチに腰掛け、阿波池田駅で買った地元の酒「三芳菊」を取り出した。たったひとりの雪見酒である。なんという贅沢な時間だろう。特急列車が行ってしまうと、あたりは静寂に包まれた。聞こえるのは屋根から落ちる雪解け水のしたたる音だけ。今度の上り列車は4時間後までやってこない。

阿波池田の地酒「三芳菊」。もちろん駅前に酒屋などないので、阿波池田駅で買っておいた。
阿波池田の地酒「三芳菊」。もちろん駅前に酒屋などないので、阿波池田駅で買っておいた。

【テツドラー田中の「駅の旅」③/JR四国/土讃線坪尻駅/徳島県三好市池田町西山】

1955年神戸市生まれ。本名は田中正恭。生来の鉄道ファンを自認し、1981年国鉄全線、2000年国内鉄道全線走破のほか、シベリア、カナダ、オーストラリアの横断鉄道など、世界27カ国を鉄道旅行。主な著書は『消えゆく鉄道の風景』『終着駅』(自由国民社)、『夜汽車の風景』(クラッセ)、『プロ野球と鉄道』(交通新聞社)など。TBS『マツコの知らない世界』、文化放送『くにまるジャパン極』等にゲスト出演。雑誌寄稿多数。その他、離島めぐり、プロ野球観戦、地酒、エスニック料理など多趣味な人生を送る。2018年10月〜2023年3月までyahoo クリエイターズプログラム・ショート動画に259篇投稿。

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