【世界の難民問題】渡米した難民の「その後」:米国では手厚く保護され、平均時給2800円(後編)
【世界の難民問題】
米国では手厚く保護され、平均時給2800円の人生が待っている
前編ではなぜ難民が先進諸国を目指すのか、そしてアメリカに逃れてきた難民はどのように保護されているかについて書いた。
後編では具体的にアメリカに再定住した難民がどのような仕事をしその後の人生を送っているのかレポートする。
無料の英語クラスも含めて「勤務時間」
ユタ州ソルトレイクシティ郊外にある古着の倉庫。全米から不要になった衣類がここに集められ、人道支援のために世界170ヵ国に発送される。施設内はまるでアリーナや展示会場のようにだだっ広い。同じ屋根の下で、アメリカに難民や移民としてやって来た世界中の人々が、共に肩を寄せ合い仕事をしている。
ブルンジ共和国から逃れてきた難民、マリア・ロッタピッゼさん(37歳)の担当は、古着の仕分け作業だ。裁縫など古着の再利用のためなら何でも請け負う。身体障害者の夫と11歳から1歳まで5人の子を、女手一つで養っている。
祖国ブルンジは東アフリカの内陸部にある最貧困国の一つ。政府から市民への拷問、暴力、人権軽視が拡大し情勢が不安定になり何十万人もの人が国内外で避難生活を送っている。
マリアさんはここで働きながら、勤務中に同じ施設内で英語も学ぶ。運営元の難民支援団体、末日聖徒イエス・キリスト教会(The Church of Jesus Christ of Latter-day Saints)では、英語クラスの受講も「就業時間」としてカウントする。ブルンジは教育水準が低く、マリアさんも祖国で学校に通う機会はなかった。アメリカに来て覚えたという英語はおぼつかないが、一つひとつ丁寧に答えるマリアさん。運営スタッフの一人が「だいぶん上達しましたね」と励ましの声をかけると、彼女は嬉しそうに微笑んだ。
筆者は彼女に祖国で何が起こったのかと尋ねると、彼女は目を潤ませ言葉に詰まった。スタッフが「ほら、彼女は難民ですから」と手を差し伸べる。筆者は軽々しく質問したことを少し後悔した。
祖国ブルンジを後にしたマリアさんは、隣国タンザニアの難民キャンプで20年もの間過ごした。その間4人の子を出産。母と兄はまだアメリカには来ることができていない。
難民申請自体は複雑なものではないそうだが、第三国へ渡航するまでの「待機」は気が遠くなるほど長い。我々の想像を絶する辛抱が強いられたことだろう。難民キャンプでの生活は「まあまあだった」とあまり多くを語ろうとしなかった。そしてマリアさん一家がアメリカに逃れることができたのは4年前。ここで誕生した末っ子は生まれながらに米国市民となった。新しい生活はどうかと尋ねると「食べ物は合うし、さまざまな国から来た同僚と共に働けて嬉しい」と笑顔を見せた。
難民・移民が働くこの倉庫では、コンゴ、アフガニスタンを筆頭にソマリア、スーダン、ブルンジ、シリア、ネパール、中国など29の国の言語が話されている。運営団体はモルモン教関連だがここで働く人の宗教はいっさい問われない。
「言葉の面で、彼らとのコミュニケーションはチャレンジングなこともあります」。案内してくれたスタッフはそう実情を話す。この国の共通語、英語を学んでほしいという思いから、職場のチームは同じ言語同士で固めないなど工夫がなされている。それでも文化の違いから、衝突が起こることも時にはある。「ただ非常に稀です。起こったとしてもそれほど大きな諍いは報告されていません」。
困難の中で彼らがフォーカスするのは、人生をより良く豊かなものにしたいという思いだ。「そのために彼らはここで一生懸命に働いています」。
難民と地元民間のサステイナブルな仕組み
難民支援団体の一つ、国際救助委員会 (International Rescue Committee=IRC)は、再定住した難民が独り立ちできるために必要な支援を、全米25都市で提供している。その一環として、ニュールーツ・プログラム(New Roots)というものがある。
これは、農地やコミュニティガーデンの一部を、祖国で農地を耕してきた農業の知識がある難民に提供し、生産(労働)する機会を与えるというもの。ここで収穫された野菜や果物、花は必要とする難民に手の届きやすい価格で届けられるほか、IRCが運営するファーマーズマーケットでも販売される。難民が社会へ貢献できるなど、持続可能な循環が成り立っているのだ。
ダウンタウンから車で10分ほどの郊外に、IRCが借入するニュールーツの農地がある。炎天下の中、休憩を取りながらブータンやアフリカ諸国などさまざまな国の難民が農作業をしていた。その中の一人、ブルンジ出身のジョセフ・バンフムケコさん(65歳)は、ここで農地を耕しトマトのような形をした黄色いアフリカナスを育てている。
ジョセフさんはアメリカに住んで14年になるが、簡単な受け答え以外は今も母国語であるキルンジ語で会話する。IRCのサラ・アダムスさんは「便利なアプリがあるから問題ない」と言い、通訳業者と音声で繋がることができるアプリ、タージムリ(Tarjimly)を使って、筆者とのコミュニケーションの仲介をしてくれた。
ジョセフさんにアメリカ生活はどうかと聞くと、その通訳を通し「ここで採れた野菜は先日ファーマーズマーケットでよく売れました」「(収入は)多くはないが、それでも家計の助けになっています」と答えた。
ベトナム難民の親が向かった香港。船上で誕生
次に筆者が訪れたのは、支援団体の難民・移民センター - アジアン協会・オブ・ユタ(Refugee & Immigrant Center - Asian Association of Utah)。
協会名に「アジア」が付いている理由について、ディレクターのスコット・コウジル(Scott Cougill)さんはこのように説明する。「ベトナム戦争後に難民がカリフォルニアの米軍基地に大挙し、ユタが援助に名乗り出たんです。当時の知事は日系2世の弁護士、ジミ・ミツナガ(Jimi Mitsunaga)氏に、ベトナムやカンボジアなどアジア諸国の難民を支援するよう働きかけ、1977年に協会が創設されました」。
それから約半世紀。現在この団体が援助する難民はアジア系だけでなく世界中の難民と亡命希望者だ。市内では特にここ5年ほどで移民の多様化が急速に進んでおり、同協会が援助する亡命希望者にキューバやベネズエラなどヒスパニック系が増えている。
ここで働くアンディ・トラン(陳)さん(44歳)は1981年、彼が2歳のとき両親と共に難民としてアメリカに渡った。中国系ベトナム人の両親はベトナム戦争後に難民となり、香港の難民収容所で2年過ごした。アンディさんは両親が香港の港に到着する2時間前に、船上で生まれた。
家族がアメリカに渡った時代、ここではベトナム反戦運動の名残などでアジア系への差別があった。はじめは苦労の連続で父は人と会わない夜間勤務の清掃業で家計を支えた。じきに中華レストランを営むことができるようになり、アンディさんを含む3人の子を育て上げた。
そんな親の下で育ったアンディさんは今、難民を「助ける立場」として日々奮闘する。「難民はトラウマを抱えているケースもあり、メンタルヘルス問題、文化や言葉の違いなどさまざまなバリアと闘っています」「政権によって移民政策が異なり、資金繰りが難しくもっともチャレンジングですが、難民の新たな人生のために頑張っています」と目を輝かせた。
リーダーとして今度は自分が難民を助ける立場に
カトリック・コミュニティ・サービス(Catholic Community Services of Utah=CCS)で移民・難民部門長をするエイデン・バタールさん(54歳)。ソマリア出身の彼は1994年、25歳のときに難民としてアメリカに逃れて来た。その2年後、CCSで働き始め、現在は自身が難民を助けるリーダーの一人として旗を振る。昨年だけで625人の難民の「再定住」を支援した。
CCSは1945年の創設以来、ホームレスや難民の支援を行うカトリック系の団体だが、スタッフや援助する難民の宗教はいっさい問わない。「私自身はムスリムです。ここで働く200人のスタッフの多くもカトリック教徒ではありません」とエイデンさん。
私生活では父親として4人の子をアメリカで育て上げた。それぞれがケミカルエンジニアや薬剤師など、この国で堅実な職務に就き、父同様に責任ある立場として活躍している。エイデンさん自身は決して奢ることなく控え目に自身の仕事や家族のことを話してくれたが、筆者は彼の話を聞きながら、また今回の滞在中に出会ったさまざまな人々のことを思い出しながら、ここに到達した人はまさに「それぞれのアメリカンドリームを歩んでいる」と感じたのだった。
- 次回は、ニューヨークなど一部の州が抱える深刻な難民問題について紹介します。
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