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バドミントン・全英オープンを制したフクヒロって? (1) 一時はペア解散も

楊順行スポーツライター
全英オープンで初優勝した福島由紀(右)/廣田彩花(写真:ロイター/アフロ)

 福島由紀のスマッシュが決まる。駆け寄って抱きつく廣田彩花。バドミントン全英オープン(OP)、女子ダブルス決勝。福島/廣田(アメリカンベイプ岐阜)が中国ペアをストレートで降して初優勝し、2020東京オリンピック出場に大きく近づいた。

「この大会には気持ちを入れてきた。自分たちらしい攻撃で優勝できたのは、すごくうれしい」と廣田がいえば、福島は「ひとつ、超えられました」と笑顔。そう、ワールドツアーでは格付けの高い大会の優勝もあるのだが、世界選手権ではなんと3年連続準優勝のフクヒロは、シルバーコレクターの印象が強い。全英という、オリンピックと世界選手権に次ぐ権威の大会を制したことで、「ひとつ、超えた」というわけだ。

 この優勝で世界ランキング1位に返り咲いたフクヒロの結成は、廣田がルネサス(現再春館製薬所)に入社した2013年のことだった。その前年入社の福島は、こんなふうに話してくれたことがある。

「おこがましいですけど、入社当時はシングルスが手薄といわれていたので、私が強くするつもりだった」

 青森山田高時代の福島は、11年のインターハイでダブルスを優勝し、シングルスも1学年下の奥原希望に敗れたものの準優勝を果たしている。シングルスの絶対的な柱が不在だったルネサスで、エースになりうる逸材だった。それでも初年度の日本リーグ(現S/Jリーグ)では、ロンドン銀メダリスト・藤井瑞希の故障もあって急きょ垣岩令佳とペアを組むと、終盤の勝負どころで3連勝。リーグ優勝に大きく貢献する勝負強さと、ダブルスの適性を見せつけていた。

 そして廣田が入社した13年には、日本ランキング・サーキット(RC)でいきなり準優勝。「急に組んだので、"どうやればいいの?"という感じでした」とは福島だが、北京五輪4位の末綱聡子コーチ(当時)によると、「最初から、見ていて全然違和感はなかったですね。廣田が前、福島が後ろという形があり、フィニッシュに持っていくのが早かった」。さらに全日本社会人、全日本総合でベスト8入りし、日本リーグでも2勝してナショナルB代表に選出された。1年目のペアとしては、順調といっていい。

1年目は順調だったペアに壁が

 だが14〜15年は、14年全日本社会人の準優勝が最高成績で、世界ランキングも国内3、4番手のままと、もうひとつ壁を破れない。そこで今井彰宏監督(当時)、びっくりの手を打った。"フクヒロ"ペアの、一時解消だ。福島は、日本リーグで組んでみて相性のよかった新人・志田千陽、廣田もやはり新人のサウスポー・小野菜保が相手。若手に出場機会を与え、さらに新ペアの可能性を探ろうという意図だった。だが福島/志田は、5月のベトナムICでは準優勝したものの、国内のRCでは2回戦負け。6月のスペイン国際では、廣田/小野に敗れるなど、思うような結果がついてこない。廣田/小野も、RCの準優勝などはあるが、海外では一進一退だ。

 で、国内では7月上旬の全日本実業団の途中から、国際大会では9月のヨネックスOP・ジャパンから、フクヒロは再結成。パートナー組み替えという刺激は、吉と出た。9月、全日本社会人で念願の初優勝。全日本総合では、高橋礼華/松友美佐紀(日本ユニシス)と好勝負を演じる4強に進み、初のA代表入りを果たした。さらに17年はマレーシアでスーパーシリーズ(SS)を初制覇し、世界選手権で銀メダル、年末のSSファイナルで準優勝と、またたく間に世界トップに割って入るのだ。17年の「最成長選手賞」を受けるほどの躍進ぶりを、2人は振り返る。

「一時別のパートナーと組んだことが、ひとつの大きな転機だったと思います」。

 廣田が付け加える。

「それまでは、福島先輩に頼り切っていた。だから試合中、困ったときに自分が引いてしまい、負けるというパターンが多かったんです。ですが一時後輩と組んだことで、自分が引っ張っていかなくてはいけないし、コミュニケーションの大切さも知りました」

 たとえば廣田は、左利きの小野とのペアで新しい攻撃パターンを発見し、「福島先輩のスピードなら、右と右でもこのパターンは使えるな」。再結成したフクヒロでも「こうしてみましょう」と積極的に提案。それまでは、先輩に遠慮がちだったコミュニケーションが、より濃密になっていく。

 16年のリオ五輪では、当時チームメイトだった山口茜の応援に出かけ、女子ダブルスでタカマツが優勝した瞬間は帰国後、2人そろってテレビで見届けた。顔を見合わせ、「すごいね……」。そして、こう続けるのだ。「でも、私たちだっていけるってことじゃない?」。

 その時点でのフクヒロは、まだB代表だ。SS出場さえ数えるほどで、世界的にはまったく無名だ。だが、リオ五輪前の全日本実業団では、金メダルのタカマツと第3ゲームのデュースまでしのぎを削った。それを物差しとすれば、"私たちも"というのは、まんざら現実感がないわけじゃない。タカマツとはその年、全日本総合の準決勝でもファイナル17対21と差のない試合を演じた。そして17年にA代表入りすると、昨年5月にスタートした五輪レースでは、個人戦16大会のうち優勝4回。代表枠が2という東京オリンピック出場をほぼ確実にした。

 そういう福島と廣田は、どんな子ども時代を過ごしたのだろうか。(続く)

スポーツライター

1960年、新潟県生まれ。82年、ベースボール・マガジン社に入社し、野球、相撲、バドミントン専門誌の編集に携わる。87年からフリーとして野球、サッカー、バレーボール、バドミントンなどの原稿を執筆。85年、KK最後の夏に“初出場”した甲子園取材は64回を数え、観戦は2500試合を超えた。春夏通じて55季連続“出場”中。著書は『「スコアブック」は知っている。』(KKベストセラーズ)『高校野球100年のヒーロー』『甲子園の魔物』『1998年 横浜高校 松坂大輔という旋風』ほか、近著に『1969年 松山商業と三沢高校』(ベースボール・マガジン社)。

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