サウジアラビアに挑戦したテーオーケインズの松山騎手が悔しがった本当の理由
牝馬3冠馬と海外で悔しい経験
本日3月1日に32回目の誕生日を迎えた松山弘平。
「今は悔しい思いで一杯です」
と、語る。
父に勧められて騎手になった彼がデビューしたのは2009年。19歳の誕生日に初騎乗初勝利を飾ると1年目から特別勝ちを含む36勝。JRA賞最多勝利新人騎手賞を受賞した。デビュー2年目の7月には国際見習騎手招待シリーズでシンガポールへ遠征した。
「勝てなかったけど、シリーズ以外のエキストラ騎乗もさせていただき良い経験になりました。海外の騎手のハングリー精神も刺激になったし、いつかまた海外で乗ってみたいと思いました」
その後、12年にはスマートギアで中日新聞杯(GⅢ)を勝利し重賞初制覇。更に17年にはアルアインとのタッグで皐月賞(GⅠ)を優勝。伝統のクラシックレースで夢にまでみたGⅠジョッキーになってみせた。
その後もカツジやサウンドキアラ、エアアルマスなどで着実に重賞コレクションを増やしたが、何と言っても彼の名をトップジョッキーにまで押し上げたのはデアリングタクトの存在が大きかっただろう。
19年の新馬戦でコンビを組んだ同馬とはその後、連戦連勝。3連勝で20年の桜花賞(GⅠ)を制すと、続くオークス(GⅠ)、秋華賞(GⅠ)も立て続けに勝利。鞍下をJRA史上初めて無敗の牝馬3冠馬へと昇華させた。
この3冠コンビは直後のジャパンC(GⅠ)でアーモンドアイ、コントレイルに続く3着となり、初めて黒星を喫した。更に休み明け初戦となった21年の金鯱賞(GⅢ)(2着)を叩かれると、香港のクイーンエリザベスⅡ世カップ(GⅠ)へと勇躍挑戦。コロナ禍で帰国後の検疫等も最も厳しい時期ではあったが松山も香港入り。意気込みが感じられたが結果は残念ながらラヴズオンリーユー、グローリーヴェイズに続く3着に敗れてしまった。
「直前の金鯱賞で追い込み切れなかったので、好位での競馬を心掛けました。結果、思い描いた競馬は出来たのですが、いつもの伸びはなかったです」
コロナ禍による飛行機の減便のため、帰国便に乗れたのはレースの3日後だった。その間、松山は「ほとんど眠れなかった」と言い、その理由を次のように語った。
「香港まで遠征したのに勝たせてあげられませんでした。スタッフの皆さんも現地では外出が許されず、ホテルと競馬場の往復だけの中、頑張ってくれました。それなのに最後に任された僕が勝たせられなかった。悔しいし、申し訳ない気持ちでしばらくは寝苦しい日が続きました」
ダート王といざサウジアラビアへ
帰国後の隔離を経て、競馬場に戻った松山。6月30日は大井競馬場の帝王賞(JpnⅠ)を優勝した。この時、手綱を取っていたのがテーオーケインズ(栗東・高柳大輔厩舎)だった。同馬とのタッグでは続くJBCクラシック(JpnⅠ)こそ4着に敗れたが、更にその後のチャンピオンズC(GⅠ)で2着チュウワウィザードに6馬身差をつけて圧勝。今年初戦をサウジアラビアで行われるサウジC(GⅠ)とし、松山も中東へ飛んだ。
レース3日前に行われた枠順抽せん会。枠番が決まるまでの間、松山は次のように語った。
「ゲートの中があまり大人しくないので出来る限り後入れになる枠が良いですね」
JBCクラシックの敗因の一つとも考えられたが、テーオーケインズはゲートの中で座り込もうとして落ち着かなくなる事がある。そのため、あまり早目に入れられるのは嫌だったのだ。
しかし、抽せんの末に決まった枠は8番。現地の方針(出走頭数を半分に割ってそれぞれの小さい番号から入れる)に従うと、かなり早目に入る枠となってしまった。これには渋い表情を見せ、パートナーは唇を噛みつつ言った。
「あまり良い枠とは言えないけど、決められたモノは仕方ないですね。レースまでまだ日があるので色々と考えながらゲート練習をやっていきたいです」
この言葉通り翌朝、そして更に翌朝となるレース前日にもゲート練習を行った。結果「練習では大人しい」(松山)と全く悪さをせず、競馬当日を迎えた。
悔しい思いの本当の理由
日中は30度を超える炎天下の中、レースが行われた。この日の第1レースから3レースまでの重賞を全て日本馬が勝利すると、松山は言った。
「日本馬に良い勢いをつけてもらったと考えたいです」
そして、レース直前まで競馬場のクラブハウスに備え付けられたジムでウォーミングアップをした。
「6時間の時差があるから、日本だともう深夜ですよね。毎日、時差ボケのせいで夕方過ぎには眠くなっちゃうんです」
だから、直前まで体を温めた。そして、汗を流しながら次のように思っていた。
「楽しむというより、何としても勝ちたい。それではいけないのかもしれないけど、楽しむ余裕はない。何としても勝ちたい……」
そんな願いが通じたか、心配していたゲートはクリアし、好スタートを切ると、好位につけた。しかし、青写真通りに運んだのはここまでだった。
「日本ならそこで流れが落ち着くところですが、ずっと厳しい流れのままで、馬が戸惑っている感じでした」
こうして日本のダートチャンピオンは8着に沈んだ。
「勝ちたいという気持ちだけだったので“悔しい”のひと言です」
そう口を開くと、その理由を続けた。
「最近は海外遠征時に外国の騎手が依頼される事が多くなりました。そんな中、関係者は日本人の僕を引き続き乗せてくださいました。有り難い事ですし、そういった期待に応えるのは“勝つ事”“結果を残す事”が全てだと思います。だから勝ちたかったし、勝てなかった事が悔しいんです」
レース終了後、競馬場を発つまでの間、松山の表情に笑みが浮かぶ事はなかった。しかし、まだ32歳になったばかり。今回の経験を糧として、近い将来、世界で凱歌をあげる日が来ると信じたい。
(文中敬称略、写真撮影=平松さとし)