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徳川家康が水野信元を斬ったのは、織田信長の命令ではなく、邪魔になったからなのか

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
徳川家康。(提供:イメージマート)

 今回の大河ドラマ「どうする家康」では、徳川家康が伯父の水野信元を斬った。なぜ、家康が信元の殺害を決断したのか考えてみよう。

 水野信元は生年不詳であるが、異母妹には松平広忠の妻となった於大の方(徳川家康の母)がいる。したがって、家康から見ると、信元は伯父に当たるのである。とはいえ、その後の政情の変化により、家康と信元の関係は悪くなった。

 そもそも水野氏は松平氏とともに今川氏に与していたが、信元の代になると大きく政策を転換し、織田氏と同盟することになった。その結果、於大の方は広忠と離縁し、久松俊勝と再婚することになった。以後、水野氏は織田方、松平氏は今川方として敵対したのである。

 その流れを変えたのが、永禄3年(1560)の桶狭間の戦いだった。この戦いで今川義元は、織田信長に急襲されて戦死した。その結果、家康は今川家を見限り、織田信長と同盟を結んだ。同時に、信元との関係も修復したのである。

 その後、両者はともに手を取り合って織田方として出陣し、武田軍との戦いを繰り広げた。天正2年(1574)3月、信長と敵対する足利義昭は信元に御内書を送り、「武田勝頼と協力して信長を討て」と命じた。しかし、信元は翌年の設楽原の戦いには、織田方として出陣した。

 信元の運命が暗転したのは、天正3年(1576)12月のことである。信長の配下にあった佐久間信盛は、信元が武田氏と内通していると讒言した。信元の配下の者が、武田方の秋山虎繁が守備する岩村城(岐阜県恵那市)に兵糧を送ったという嫌疑もあった。

 そこで、信長は裏切り者の信元を処分すべく、家康に殺害を命じたのである。信元は、松平氏の菩提寺の大樹寺(愛知県岡崎市)で養子の信政ともども殺害された。しかし、この事件を裏付ける確かな史料はなく、謎が多いと言わざるを得ない。

 信元は三河国において、かなりの支配領域を保持していた。一説によると、家康はそんな信元の存在が邪魔になり、殺害したのではないかといわれている。つまり、讒言というのは、単なる口実に過ぎない。その辺りは、今後の課題である。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『蔦屋重三郎と江戸メディア史』星海社新書『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房など多数。

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