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【深掘り「どうする家康」】織田信長は、本当に父の位牌に抹香を投げつけたのか

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
織田信長。(提供:アフロ)

 NHK大河ドラマ「どうする家康」では、織田信長の傍若無人な振舞いが注目されている。今回は信長が本当に父の位牌に抹香を投げつけたのか、詳しく解説することにしたい。

 天文21年(1552)に織田信長の父信秀が亡くなった際の逸話は、あまりに有名だ(信秀の没年には諸説ある)。

 『信長公記』首巻によると、信秀の焼香に訪れた信長の服装は、長い柄の太刀と脇差しを稲穂の芯でなった縄で巻き、髪は茶筅のように巻き立て、袴も着用していなかったという。

 一番問題になったのは、焼香のときだ。仏前へ進み出た信長は抹香をぱっと摑むと、仏前へ投げつけて帰ったのだ。

 周囲の者は、信長の非常識な行為に驚いたことだろう。考えるまでもなく、葬儀の場でこのようなことをされると、親族一同が非常に迷惑だったに違いない。

 信長と対照的だったのが、弟・信勝(信行とも)の葬儀での行動だ。信勝は威儀を正した肩衣、袴を着用しており、形式どおりの作法を行ったという。信勝はごく常識的に作法を行ったので、信長の非常識な行動のほうが際立った。

 『信長公記』は、信長が世間によく知られた「大うつけ(大バカ者)」と評判だったとしながらも、葬儀の参列者のなかに九州からの客僧が一人いて、「あの人物こそ、国を支配する人だ」と述べたという話を載せている。

 九州の僧侶の言葉は、常識に捉われない信長を高く評価しているようで、何らかの作為を感じなくもない。『信長公記』は、信長の将来の栄達を予見して、ユニークな話をあえて交えたのかもしれない。

 こうした信長の振る舞いは織田家の後継者としてふさわしいものではなく、家臣たちを大いに悩ませた。天文22年(1553)閏1月、家臣の平手政秀は信長の態度が改まらないことを悲観し、切腹することによって、身をもって諫言したという。

 『信長公記』を執筆した太田牛一は、客観的な立場で真摯な姿勢で、信長の生涯を叙述した。事実関係の誤りが少ないので、歴史史料としても重宝されている。ただし、同書が信長の死後から20数年を経て編纂された、二次史料であることに注意すべきだろう。

 信長が父の位牌に抹香を投げつけたことは、『信長公記』首巻に記されたものだが、首巻は本編とは別物であると考えられている。非常にユニークな話が数多く収録されているものの、それゆえに疑わしいと感じるものもある。

 したがって、信長が父の位牌に抹香を投げつけた件も、何らかの経路で牛一が知ったと思うが、そのニュース・ソースが明らかではないので、十分な検討が必要だと思う。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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