【深掘り「鎌倉殿の13人」】和田合戦が終結!和田義盛以下、和田一族の悲壮な最期
大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、和田合戦が勃発した。和田義盛以下、和田一族の悲壮な最期について、諸史料に基づき詳しく掘り下げてみよう。
■息を吹き返した和田勢
建暦3年(1213)5月2日に勃発した和田合戦は、最初こそ先制攻撃を仕掛けた和田義盛の率いる和田勢が有利に戦いを進めた。しかし、幕府軍の態勢が整ってくると、徐々に守勢に回ることとなり、ついには由比ガ浜へと退くこととなった。
翌日の5月3日の早朝、横山党の横山時兼が約3000の兵を率いて、由比ガ浜に退いていた和田勢のもとに援軍として馳せ参じた。疲労の色の濃かった和田勢は、味方を得て再び息を吹き返したのである。
午前7時頃になると、曽我、中村、二宮、河村といった御家人が馳せ参じ、武蔵大路や稲村崎の付近に陣取った。その後、実朝が義兵を募るべく御教書を送ると、たちまち幕府軍に加わったという。
■戦いの進展
こうして両者は互角となり、午前10時頃に和田勢が鎌倉に攻め込んできた。主戦場となったのは若宮大路で、北条泰時・時房が守備していた。ここで大活躍したのが朝比奈義秀で、幕府勢を次々と蹴散らした。和田勢は義秀の活躍もあり、有利に戦いを展開したのである。
しかし、幕府勢に与した御家人のほうが多く、いかに和田勢が一騎当千の強者で構成されているとはいえ、だんだん情勢が厳しくなってきた。幕府勢に討たれる兵も少しずつ増えていったのである。
午後6時頃になると、義盛の子・義直が無念にも戦死した。義直の死を知った義盛は嘆き悲しんだが、江戸義範の郎党によって義盛も討ち取られた。そして、義盛の子の義重、義信、秀盛以下、7人の張本人も討ち死にした。義秀だけは兵500を船6艘に乗せて、安房国へと逃れたのである。
■まとめ
こうして早朝から始まった和田合戦は、夕方まで続く激闘となった。和田勢の敗因は、三浦義村の裏切りだろう。義村の裏切りがなければ、和田勢に馳せ参じる御家人が多数いたのではないのか。
和田合戦の戦後処理については、改めて取り上げることにしよう。