「特攻」を支えた気象情報 ~沖縄気象台の太平洋戦争~
沖縄気象台には1年に2回、大事な日があります。
一つ目は7月1日、沖縄気象台の創立記念日です。いまから134年前、1890年(明23)に那覇市(現・松山町)で近代的な気象観測が行われたのを由来として、毎年この日に記念式典が行われています。そしてもう一つ、沖縄気象台関係者の間で毎年6月23日に行われる「慰霊祭」です。
今年、その慰霊祭にお招きいただき関係者の方から貴重なお話を伺う機会を得ました。
那覇から国道331号線を南下し、糸満市伊原にある、ひめゆりの塔まであと500メートルの地点を左折したところに、忽然と「琉風之碑」と書かれた石碑が現れます。辺りは草木が茂って何もないところですが、この地こそ沖縄戦における「気象観測終焉の地」とされる、知る人ぞ知るメモリアルな場所なのです。
撤退しながらも続けた気象観測
時は1944年(昭19)10月10日、米軍は上陸に先駆けて那覇市内に大空襲を行い那覇市街は、ほとんど全焼しました。翌1945年(昭20)になるとさらに艦砲射撃も激しくなり、いわゆる「鉄の暴風」と呼ばれる大攻撃が行われました。そして4月1日に米軍が沖縄本島に上陸します。
当時の気象台は現在の那覇港に近い小禄村(おろくむら)にありましたが、当然その場所での観測は無理となり、気象台職員は観測を続けながら南に撤退することとなりました。田中静夫台長代理の指揮のもと、38名の気象台職員が、それぞれ分散して南に向かいました。しかし、この撤退は単なる撤退ではなく、その都度気象観測を行って、福岡気象台経由で大本営に気象情報を届けていたのです。
気象測器もままならぬのに、気象台職員は、いったい何をどう観測していたのでしょう。
特攻に欠かせなかった目視観測
太平洋戦争末期、アメリカ軍艦に対してのゼロ戦などによる突入攻撃は広く知られるところです。この特攻作戦はやみくもに行われていたわけではありません。
琉風会会長・眞境名武巳(まじきな たけみ)さん(72歳)に、観測機器が無いのに何をどう観測したのかとお訊きすると、一番重要なのは目視(もくし)で「見通せる距離」。そして「雲の形」と、「雲の状態」だ、とのことでした。
ふつう飛行機が飛ぶには快晴で、視程(してい)が良い方がベストですが、こと特攻の場合は快晴だとすぐに発見されてしまいます。かといって低気圧などによる分厚い雲も飛行に障害があるのでよくありません。眞境名さんが生存者に聞いた話では「上層と下層の二層に雲があって、突撃寸前にその下層の雲の間から敵艦に突入した」のだそうです。
上の写真は、今年6月30日、友人が奄美大島の東方上空で撮影したものです。積雲の上に、薄く高層雲が広がり、二層になっているのがわかります。これを見た時、あっ!こんな状態だったのだろうなと想像しました。
そしてもう一つ、風も飛行には重要な指標です。これも目視から風速を推定する方法をとっていたそうです。つまり、木の葉や小枝が揺れるのを見て、これは風力4というふうに報告していたわけです。考えてみればこの方法はビューフォート風力階級(※)として測器が無い時代でも船乗りが使用していた方法です。
このように目視観測を行いながら、気象台職員は南下を続けました。
気象台職員の多くが犠牲に
こうして沖縄気象台の職員は現在の糸満市伊原にたどり着くのですが、6月22日、田中台長代理は、この地で生存者12名に対して「誰でも良い、一人でも良いから生き残り沖縄気象台の最後を中央気象台へ報告するよう」とのべて、組織的行動を停止し解散しました。この場所こそが「琉風之碑」が建てられた地なのです。
沖縄戦が始まった3月下旬には気象台職員は38名でしたが戦後に生存が確認されたのは5名のみ。わずか数ヶ月の間に9割近い方の命が失われたことになります。
壮絶な地上戦が行われた沖縄ですが、多くの気象台職員の方々も犠牲になったのです。
参考
琉風会の沿革 琉風会発行
沖縄気象台百年史 沖縄気象台発行
気象戦史概論 前川利正編著
「天気」琉球気象台を訪ねて 大後美保著 1955年8月日本気象学会発行
※気象庁発行 気象観測ガイドブック32ページ参照