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ブラジル秘史。メキシコ五輪で日本と対戦したブラジルに日系のクラッキがいた。男の名は「シナ(中国人)」

下薗昌記記者/通訳者/ブラジルサッカー専門家
メキシコ五輪のブラジル代表として戦った日系2世の「シナ」ことアデミール・ウエタ

 6月6日にネイマール擁するブラジル代表と対戦する日本代表。過去12回対戦し、2分け10敗に終わっているA代表だが、五輪の舞台でも過去、日本は3度、ブラジルと対戦している。「アトランタの奇跡」で知られる1996年の歴史的なアップセットから遡ること28年。日本が銅メダルに輝いた1968年のメキシコ五輪のグループリーグで、日本はブラジルと対戦し、1対1のドローに終わっている。この試合で、カナリアイエローのユニフォームに身を包んだブラジルに一人の日系2世がいた。もっとも、男の登録名はポルトガル語で中国人を意味する「シナ」。しかし、アデミール・ウエタの本名を持つ彼は確かに、日本人の父を持ち、日本にルーツを持つ男だった。

子供同士のじゃれあいから生まれた「中国人」の登録名

 近年のブラジルサッカー界では本名で登録される選手が増えているが、ペレやジーコ、カレッカなど世界的に知られるスター選手は、いずれも本名ではないいわゆるサッカーネーム。1948年、サンパウロ市内で生まれたアデミールだが、父は幼少時に日本からブラジルに移民で渡った純然たる日本人。そして母はイタリア系のブラジル人だった。中国とは縁もゆかりもない幼きアデミールだったが、子供同士のたわいもないやりとりが「シナ」の登録名のきっかけになったのだ。

 「お前の父ちゃんは日本人、母ちゃんはブラジル人。じゃあ、お前は何人だ、中国人かよ」

 年上の友人が発した言葉を機に、アデミールのあだ名は「シナ」になったのだ。幼少でブラジルに渡ったこともあり、精神構造はブラジル人そのものだった父は、当時の日系社会では珍しいサッカー狂。アデミールの名も、1950年のワールドカップで得点王に輝いたブラジル代表のアデミールにちなんだものだった。日系初のプロサッカー選手でコリンチャンスでもプレーした叔父、トチオ・ウエタを持つアデミールもまた、サッカーの才能に恵まれていた。アマチュアのチームでプレーしていたアデミールは、パルメイラスでプレーしていた名手ジェンゴの目に留まり、パルメイラスの下部組織入りを果たす。

名門パルメイラスの下部組織で頭角を現し、ペレ擁する黄金期のサントスからもゴール

 1967年にはブラジル国内8つの州の選抜が集うこの大会(当時のブラジルでは州選抜での大会も多かった)に、サンパウロ州選抜のエースとして出場したアデミールは、全5試合で得点王に2点及ばない8点をゲットし、優勝に大きく貢献。この大会での活躍が五輪の南米予選でのブラジル代表入りにつながっていく。

 南米予選6試合で、チーム最多となる3得点を挙げ、出場権獲得の原動力となったアデミールは、「ヴェルダン(偉大なる緑)」の愛称を持つパルメイラスのトップチームでもチャンスを得て、1968年のコパ・リベルタドーレス決勝戦でもピッチに立っていた。

 エストゥディアンテス(アルゼンチン)に敗れ、南米王者こそ逃したものの、アデミールは帰国直後、サンパウロ州選手権でペレ擁するサントス戦でもピッチに立つ。ペレや1970年のメキシコ大会でキャプテンを務めたカルロス・アルベルト、クロドアウドらスターが揃うサントスに対して当時19歳のアデミールは見事な先制点をゲット。結果的に逆転負けを喫したが、着実にクラッキ(名手)への道を歩んでいた。

 当時、プロ選手の参加は認められていなかった五輪サッカーにブラジルは決して力を入れていたとは言い難いが、それでもミュンヘン五輪の南米予選だけだがジーコも5試合に出場。本大会ではファルカン(元日本代表監督)が、1976年モントリオール五輪にはジーコとともにフラメンゴで一時代を築いたジュニオールが、五輪代表を経験している。

 2004年、ブラジルを中心とする日系人のサッカー選手を取材することを当時のライフワークにしていた筆者(拙著「ジャポネス・ガランチード」として2013年に上梓)は、サンパウロ州内陸部のカタンドゥーバに在住するアデミールを訪ね、インタビューした。

父祖の国でもある日本との邂逅。脳裏に焼き付いた「カマモト」のプレー

 「五輪とはいえ、国を代表する威厳は格別なものだよ。まして僕らはブラジル代表なんだ。当然、金メダルしか考えていなかった」

 檜舞台への思いをこう明かしてくれたアデミールに、グループステージ第2戦で対戦した父祖の国との対戦を振り返ってもらった。ブラジルが先手を取りながらも1対1のドローに終わったこの試合展開はあまり覚えていないと話したアデミールだったが、対戦相手の左胸に刻まれていた日の丸を見た時のことは、よく覚えていると話した。

 「ああ、この国で父さんは生まれたんだなって思ったね」

 そして取材した当時、アデミールが覚えていたのは日本が誇る名ストライカー、釜本邦茂の存在だ。

 「カマモト。背が高くて、パワフルな最高のセントロアヴァンテ(センターフォワード)だったな。普通、デカイ奴は動きも鈍いんだけど、カマモトは違った。得点王も当然だよ」(アデミール)。

 釜本のポストプレーをきっかけに後半38分に同点に追いついた日本だったが、ブラジルにとっては痛恨のドロー。3戦目のナイジェリア戦も引き分けに終わったブラジルはスペイン、日本に遅れを取り、グループステージ敗退の憂き目を見た。

 オリンピックの翌年の1969年にアデミールはパルメイラスと念願のプロ契約を果たしたが、現在とは異なり海外に移籍する選手が稀だったブラジルサッカー界はクラッキが綺羅星のごとく揃っていた。

 パルメイラスで定位置を獲得できなかったアデミールはその後、ポルトガルのマリティモに移籍。背番号10を付けた司令塔としてポルトやベンフィカなどの強豪と対戦。得点力のある攻撃的MFとして活躍し、その後1983年にスパイクを脱いでいる。

 アデミールの次男、ラファエウもポンテ・プレッタでブラジル選手権1部でのプレー経験を持つプロ選手だったが、「シナ」の名で呼ばれた小柄なクラッキを最後に、五輪の舞台に立った日系人は現れていない。もちろん、ワールドカップ本大会でも。

記者/通訳者/ブラジルサッカー専門家

1971年、大阪市生まれ。大阪外国語大学(現大阪大学外国語学部)でポルトガル語を学ぶ。朝日新聞記者を経て、2002年にブラジルに移住し、永住権を取得。南米各国でワールドカップやコパ・リベルタドーレスなど700試合以上を取材。2005年からはガンバ大阪を追いつつ、ブラジルにも足を運ぶ。著書に「ジャポネス・ガランチードー日系ブラジル人、王国での闘い」(サッカー小僧新書)などがあり、「ラストピース』(KADAKAWA)は2015年のサッカー本大賞で大賞と読者賞。近著は「反骨心――ガンバ大阪の育成哲学――」(三栄書房)。日本テレビではコパ・リベルタドーレスの解説やクラブW杯の取材コーディネートも担当。

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