東京五輪での「テロ」に備える
リオデジャネイロでのオリンピックが大過なく閉幕した。大会期間中、大会そのものやその周辺での「テロ」攻撃は発生しなかったし、世界的に見ても期間中に発生した襲撃事件の類はごくわずかで、被害や広報効果もほとんど上がらなかった。このような状況は、「テロ」攻撃の危険性やそこから生じる被害そのものは、一般的な粗暴犯、交通事故、突発性の疾患の危険性や損害に比べて低いという、周知の事実を確認するものであろう。また、「イスラーム国」の「テロ」攻撃とされるものも若干数発生したが、これらについての報道の量・質ともに「テロ」攻撃として政治的・社会的反響を呼ぶ水準にはほど遠く、「テロ」攻撃の効果はオリンピックやその他の政治・経済動向への関心の高さや、「テロ」攻撃に対処する上での報道機関の工夫や努力の前にかき消された感がある。
ここで指摘すべきことは、オリンピック関連の「テロ」事件がほとんど発生しなかったことは何かの偶然や幸運の結果ではなく、様々な人々の不断の努力の結果だということである。これらの努力の多くは、出入国管理、武器・危険物の生産・流通・貯蔵の管理、容疑者や監視対象者の追跡、そして「テロ」組織が発信する情報の収集と分析など、普段ほとんど人目に触れない活動である。これらの活動の本旨は、映画やゲームで時折見かけるような「テロリスト」との交戦や彼らの制圧場面のような派手なものではなく、一見すると何事も起きていない「平穏無事」な状態を保つことにある。従って、何か「テロ」攻撃が発生した後になって「犯行声明」や「脅迫メッセージ」を探し出す特ダネ競争的な情報収集なるものは「テロ」対策の本旨にそぐわないものだと言わざるを得ない。情報収集・分析として重要なのは、むしろ平時から「テロ」組織が発信する情報を収集・分析し彼らの意図や情報の信憑性・深刻度を判断し、必要な部署に適切に警戒情報を発信することである。「イスラーム国」をはじめとするイスラーム過激派についての情報収集・分析を例にとれば、実は彼らは過去10年以上サミットやオリンピックに対する脅迫や論評をほとんどしていなかった点、模倣犯や単独犯も含むイスラーム過激派の「テロ」攻撃が発生する場所の多くは過去5~10年の間にイラクやシリアにイスラーム過激派戦闘員を送り出した実績がある国々だということが判明しており、こうした経験が今後の情勢推移を予想する上で参考となろう。ただし、バングラデシュのように当事国の官憲がイスラーム過激派への戦闘員の送り出し実績を正確に発表する意思と能力を欠いていた事例もあるため、各国の担当当局の能力の向上と国際的な協力の増進は重要な課題として残り続ける。
以上に鑑みると、日本でも中央省庁での「テロ」対策部門の増強が矢継ぎ早に行われていることは評価すべきことである。その一方で、これを担当する要員の採用や育成は一朝一夕のうちにできることではない。例えば、「イスラーム国」の広報活動や同派の構成員・ファンによる情報発信は多くの言語にわたるが、そこで用いられる語彙のうち、彼らの世界観や情勢認識に関する重要な語彙の多くが日本語でいう「カタカナ英語」よろしく、アラビア語から各国語へそのまま移入されている場面が増している。そうなると、フランス語、ロシア語、トルコ語などの言語に通じた人材をそのままイスラーム過激派の広報の監視や分析に起用しても肝心な部分の語彙が理解できない、という事態が生じかねない。繰り返すが、情報の収集や分析は平時にこそ、「平穏無事」な状況を保つために取り組むべき活動なので、それを支える人材の確保・育成は決してないがしろにしてはならない。本邦における語学や世界の諸地域の専門家のための雇用環境や社会的地位はお世辞にも「よい」とは言えないものであるため、このあたりも踏まえた環境整備も課題として認識したい。
「テロ」攻撃やそれについての情報という分野では、何か事件が発生した後に活躍したり、分析を軽視して不安を煽ることに偏った解説やコメントをしたりする個人や業者の存在も否定できない。だからこそ、「平穏無事」な状態を守るために日々尽力している多くの専門家や担当部署のご苦労に思いをはせたいところである。