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【戦国こぼれ話】祝! 令和4年(2022)! 1月に誕生した戦国武将5選

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
初日の出と赤富士と鶴。(提供:アフロ)

 あけましておめでとうございます!本日から令和4年(2022)のはじまりだ。心新たに「がんばろう!」という人も多いはず。新年の第一弾は、1月に誕生した戦国武将5選ではじめることにしよう。

■上杉景勝

 上杉景勝は、1556年1月8日の誕生(旧暦では弘治元年11月27日)。長尾政景の子として誕生したが、のちに謙信の養子となった。

 謙信の没後、景勝はもう1人の養子・景虎と家督を争って勝利した(御館の乱)。

 豊臣秀吉が台頭すると配下に加わり、越後などを領有。1598年に会津に転封し、120万石の大名となった。

 秀吉の死後、五大老として政権を担うが、1600年の関ヶ原合戦では西軍に属し徳川家康に敗北した。

 戦後、景勝は会津120万石から米沢30万石へと没落した。亡くなったのは、1623年である。

■津軽為信

 津軽為信は、1550年1月18日の誕生(旧暦では天文19年1月1日)。武田守信の子として誕生したが、のちに伯父・津軽為則の養子となった。以後、津軽統一に力を尽くした。

 1590年には南部氏から独立して津軽を領有し、のちに津軽4万石の支配を安堵状で認められた。

 1600年の関ヶ原合戦では東軍に属し、さらに7000石を加増された。病没したのは、1608年である。

■池田輝政

 池田輝政は、1565年1月31日の誕生(旧暦では永禄7年12月19日)。

 池田恒興の子として誕生したが、のちに父と兄・元助が1584年の小牧・長久手の戦いで戦死したので、家督を継承する。

 その後、輝政は豊臣秀吉に仕え、美濃岐阜10万石を領有した(1590年に三河吉田15万2000石)。

 1594年、輝政は徳川家康の娘・督姫を継室として迎えた。この結婚により、輝政と家康の関係は強固になった。

 1600年の関ヶ原合戦では東軍に属して勝利に貢献し、恩賞として播磨姫路に52万石を与えられた。そのとき築いた姫路城は国宝である。

 家康から厚遇されたゆえに、「神君の婿」、「西国の将軍」と称されたが、1613年に病没した。

■徳川家康

 徳川家康は、1543年1月31日の誕生(旧暦では天文11年12月26日)。松平広忠の子として誕生したが、幼い頃は今川家の人質になるなどの苦労があった。

 1560年、織田信長が今川義元を桶狭間で打ち破ると、家康にも転機が訪れた。信長に与した家康は各地を転戦し、甲斐武田氏との戦いなどで大いに軍功を挙げた。

 1582年の本能寺の変で信長が横死すると、以後は豊臣秀吉の配下になった。1593年に秀吉が亡くなると、1600年の関ヶ原合戦で東軍を率いて西軍の石田三成に勝利した。

 1603年、家康は征夷大将軍に就任し、江戸幕府を開幕。1615年の大坂夏の陣で豊臣家を滅亡に追い込んだ。江戸幕府の基礎を築いた家康が亡くなったのは、1616年のことである。

〔番外編〕豊臣秀吉

 かつて豊臣秀吉の生年は、史料の質が劣る『絵本太閤記』に基づいて、旧暦の天文5年1月1日であるといわれてきた。しかし、現在ではこの説が誤りであると指摘されている。

 もっともめでたい日の1月1日に秀吉の誕生日を設定したのは、生まれながらの英雄であったことを際立たせるためだろう。『絵本太閤記』には、ほかにも秀吉にまつわる荒唐無稽な話が多すぎる。

 秀吉の正しい生年は、『天正記』(秀吉の御伽衆・大村由己の著)や文書の記載により、旧暦の天文6年2月6日が有力であると指摘されている。

■まとめ

 実は戦国大名の生年月日は、系図に書かれたものが大半である。もっとも明確にわかるのは、天皇家の人々、将軍家の人々である。

 ほとんどの戦国武将は生年がわかっても「月日」までわからず、生年すらわからない人がいることを付記しておきたい。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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