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<朝ドラ「エール」と史実>「長い間求めていたのはこれだ!」現実でも予科練習生に支持された「若鷲の歌」

辻田真佐憲評論家・近現代史研究者
(写真:つのだよしお/アフロ)

■「若鷲の歌」は出てこないはずだった?

朝ドラ「エール」、今週取り上げられる古関裕而の曲は「若鷲の歌」です。これはたいへん意外でした。

たしかに、「若鷲の歌」は、「露営の歌」「暁に祈る」に並ぶ、古関裕而の大ヒット軍歌のひとつです。ですが、その作詞者の西条八十は、「紺碧の空」の回で、すでに実名で登場していました。

ご存知のとおり、朝ドラの主要な登場人物はすべて別名です。古関裕而→古山裕一、山田耕筰→小山田耕造、野村俊夫→村野鉄男、という具合に。

ですから、「若鷲の歌」が出るのならば、西条八十も当然、「東条四十」(?)みたいな名前になっているはず。それが実名だったということは、きっと「若鷲の歌」は飛ばされるんだろうと思っていたわけです。

いや、「露営の歌」作詞者の藪内喜一郎はそのままだったのでは――。詳しい読者の方は、そうツッコミをいれるでしょう。ご慧眼。ただ、藪内は「露営の歌」作曲に関与していませんが、西条は「若鷲の歌」作曲にしっかり立ち会っているのです。

■「ハア ヨカレン ヨカレン」削除は実話だが……

ときは1943年の5月はじめ。古関裕而は、「海軍航空隊の予科練習生を主題とした映画を東宝で制作することになったので、その主題歌を作曲してくれないか」との依頼を受けました。

このころ、日本軍はジリジリと米軍に押されはじめていました。2月には、ガダルカナル島守備隊の「転進」が発表され、5月にはアッツ島守備隊の「玉砕」、そして山本五十六連合艦隊司令長官の戦死も発表されました。

太平洋の戦線は航空機で勝敗が決まったので、パイロットの補充は焦眉の急でした。そのため、東宝では、海軍飛行予科練習生(海軍のパイロット養成制度。予科練)を宣伝する映画『決戦の大空へ』を作ることになり、そのテーマソング「若鷲の歌」作曲の仕事が、「軍歌の覇王」古関に回ってきたのです。

古関は、「若鷲の歌」作曲にあたって、作詞者の西条八十、映画監督の渡辺邦男、コロムビア・ディレクターの川崎清たちとともに、茨城県の土浦にある予科練の見学をし、深い感銘を受けました。そして東京に帰り、その経験を踏まえて、長調のメロディーを作りました。この時期の古関にしては珍しく、いい曲がなかなか思い浮かばず、かなり苦労したようです。

ちなみにこのとき、西条の歌詞にあった「ハア ヨカレン ヨカレン」という一節は、古関の要望で削除されました。このエピソードは、昨日の放送でも使われたとおりです。ただ、古関と西条はこれ以前にも、一緒に戦地を訪問して生死をともにするなど深い関係にありましたから、そんなに嫌な顔はされなかったはずです。

■「これはいい。この曲の方が受けるかもしれない」

それはともかく、古関たちの一行は、完成した歌を披露するため、今後は歌手の波平暁男も加えて、ふたたび予科練に向かいました。ただ、古関はまだ曲に納得がいっていませんでした。もっといいメロディーがあるのではないか――。そんなとき、ふとあるメロディーが思い浮かんだといいます。

常磐線の車中、曲に対する不満が頭から離れない。利根川を渡り茨城県に入った頃、ふとある短音階のメロディーが浮かんだ。「これだ、長い間求めていたのはこれだ」と言いきかせて、持参した五線紙に十六小節のメロディーを書き、歌詞を入れて波平君に渡した。

「今できたばかりの曲だが、これも歌って」

同じ楽譜を伴奏者にも渡した。二人は小さな音と小声で歌った。同乗のディレクターがこれを聞いて「これはいい。この曲の方が受けるかもしれない」と言ってくれた。

出典:古関裕而『鐘よ鳴り響け』

電車のなかで作曲するという経緯は、「露営の歌」とまったく同じです。

■予科練の若者たちによってメロディーが決まる

さて、予科練についた古関たちは、さっそく教官たちに長調と短調の曲を聞かせてみました。教官たちの軍配は、事前に作っていた、長調のほうに上がります。

ただ、「せっかくなので生徒たちに決めさせよう。かれらの歌なのだから」との声があがり、さっそく練習生たちが校庭に集められました。歌手の波平が、最初に長調のメロディーで歌い、あとで短調のメロディーで歌いました。そして――。

隊長が「前の歌がいいと思う者」と言うと十人ほどの生徒が手を挙げた。「後の曲がいいと思う者」と言うと、生徒のほとんど全員がにぎりこぶしを高くさし上げた。これで決定した。

出典:前掲書

こうして「若鷲の歌」のメロディーは、予科練の若者たちの挙手によって決まったのです。考えてみれば、この短調のメロディーこそ、古関軍歌の優れた特色をすべて備えたものでした。「哀調を帯びながらもまた勇ましく、しかも何ともいへず望郷の念をそゝる音律」。「露営の歌」で言われたその評価は、「若鷲の歌」にも当てはまるでしょう。

ただ哀しい曲は軍部に支持されなかったでしょうし、ただ勇ましい曲は大衆に支持されなかったでしょう。「軍部に命令された勇ましいだけの曲=軍歌」/「大衆の心に寄り添った哀切あふれる曲=戦時歌謡」という単純すぎる区別を乗り越えた彼方に、古関軍歌の本質があったのです。それは、藤田嗣治の戦争画などとも通じるところがあったのではないでしょうか。

■ヒットチャートでダントツのトップに

「若鷲の歌」のレコードは、先述の波平と霧島昇によって吹き込まれ、9月10日に臨時発売されました。映画『決戦の大空へ』も、同月16日に封切られました。

古関は、映画の公開初日、有楽町の日劇に行ったそうです。すると、映画を見終わったばかりの小学生たちが出てきて、「若い血潮の…」と「若鷲の歌」を歌いはじめたとか。こういう歌が流行らないわけがありません。

実際、「若鷲の歌」はこの太平洋戦争下、群を抜く大ヒットに成長するのです。じつは、1943年8月から翌年8月までのレコード販売の記録が残っています。トップ10位までですが、それを以下に転載してみましょう(レコード会社名などは省略しています)。

1.「若鷲の歌」23万3000枚

2.「轟沈」8万1000枚

3.「索敵行」6万5000枚

4.「大航空の歌」5万枚

5.「別れ船」4万3000枚

6.「暁に祈る」4万1000枚

7.「空の神兵」3万3000枚

8.「大アジヤ獅子吼の歌」2万6000枚

9.「唄入り観音経」2万4000枚

10.「学徒空の進軍」「月月火水木金金」「大航空の歌」「荒鷲の歌」2万2000枚

このように、「若鷲の歌」はダントツのトップでした。当時、レコードの生産数は急減していましたから、23万枚は驚異的な数字といえます。なお、6位には、1940年の「暁に祈る」がランクインしています。ロングセラーだったことがわかります。

別々の2曲がランクインしている作曲家は、ほかには江口夜詩だけです(「轟沈」「月月火水木金金」。「大航空の歌」は、同じ曲が2つのレコード会社からリリースされた)。山田耕筰や、古賀政男は、影もかたちもありません。このような点からも、古関が戦時下最大のヒットメーカーだったことがわかるのです。

■実はトンカツ談義で盛り上がっていた?

以上みたように、「エール」では、西条八十の存在がほぼ消されてしまいました。その背景には、もしかすると、つぎのような西条の回想が関係しているかもしれません。最初に、予科練に見学に行くときのことです。

ところでおもしろいのは、この出張の第一の魅惑は予科練習生の生活の視察よりもむしろ食い物にあった。当時航空隊の門前には増田屋という旅館があり、航空隊に用事のある人はみんなそこに泊まるが、そこではめったに食われないような人頭大のうまいトンカツを食膳に出すという評判だった。ご承知のとおり、戦いはまさにたけなわ、だれも食糧に飢えている時代だった。このトンカツ話は一行の興味を呼んで行きの列車内でも話はもっぱらそれで持ちきっていた。

出典:西条八十『わが歌と愛の記』

なんと、古関や西条たちは、トンカツ談義で盛り上がっていたというのです。これでは、悲壮感も、なにも、あったものではありません。「エール」では、主人公が、兵役をまぬかれた負い目を感じているという設定なので、こういう内容は取り込めなかったのでしょう。

ちなみに、肝心のトンカツは、「評判ほど大きくもなく、またたいしてうまくもなかった」(西条前掲書)そうです。食糧難の時代らしいエピソードとして、ここに紹介しておく次第です。

評論家・近現代史研究者

1984年、大阪府生まれ。慶應義塾大学文学部卒業。政治と文化芸術の関係を主なテーマに、著述、調査、評論、レビュー、インタビューなどを幅広く手がけている。著書に『「戦前」の正体』(講談社現代新書)、『古関裕而の昭和史』(文春新書)、『大本営発表』『日本の軍歌』(幻冬舎新書)、『空気の検閲』(光文社新書)などがある。

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