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“ミスターセレッソ”超え J1で新たな歴史を刻んだキム・ジンヒョンが明かした日本に居続ける意味

金明昱スポーツライター
セレッソ大阪で14年目を迎えたGKキム・ジンヒョン(写真・筆者撮影)

「新記録といってもそこまで特別な感情はないのが正直なところです。ただ、セレッソ大阪でこうした記録を残せたことは、本当にチームに感謝すべきことです」

 セレッソ大阪の守護神、キム・ジンヒョンはそう言って笑顔を見せた。

 5月3日のJ1リーグ第11節、サガン鳥栖戦に先発出場したキム・ジンヒョン。この試合で外国籍選手としてはJ1最多となる334試合出場となり、新記録を達成した。

 大学卒業後の2009年にセレッソ大阪に加入して以来一度も移籍することなく、一つのチームでプレーし続けている。今季で14年目を迎える34歳のコリアンJリーガーは、なぜ日本に、Jリーグに、セレッソに居続けるのか。これまでほとんど語られてこなかった深層に迫った。

様々なシーンで試されるプロの資質

 セレッソ大阪GKキム・ジンヒョンのプレーを見るたびにいつも不思議に思っていたことがある。

 韓国人選手が日本でプロデビューし、日本の一つのクラブにこれだけ長く居続けるのはなぜなのか、と。

 J1リーグ第11節サガン鳥栖戦(5月3日)で、キム・ジンヒョンは通算334試合出場となり、外国籍選手としての歴代最多J1出場記録を更新した。"ミスターセレッソ"の愛称を持つ森島寛晃社長を上回る、クラブ歴代最多J1出場記録保持者でもある。

「私が“ミスターセレッソ”ですか? それは現社長の森島寛晃さんのものです。現役時代、森島さんはチームに対する愛情とプライドを持った偉大な選手でしたから、私は”レジェンド”でもなければ、ただの一員。森島さんの足元にも及びません」

 “ミスターセレッソ”の称号がついてもいいのではないかと聞くと、笑って首を横に振っていた。

 歳を重ねても衰えを知らない反射神経とセービング、1対1にも強く、ハイボールへの対応も安定感は抜群。最後の砦でもありながら、最近はビルドアップから最前線へのロングフィードも精度が増し、攻撃の起点にもなる。

今季もJ1リーグ開幕戦から先発出場を果たした
今季もJ1リーグ開幕戦から先発出場を果たした写真:森田直樹/アフロスポーツ

 韓国代表にはポジション争いの激化から、ほとんど呼ばれることはなくなったが、Jリーグでのプレーは今も全盛期なのではないかと感じるほどだ。

 さらに性格や人柄はプレーにも表れる。3月19日のJ1第5節北海道コンサドーレ札幌戦(2-2)で、FW中島大嘉選手のゴールのはずが、試合後も認定されず、最終的に「ボールに触った」と証言したのがキム・ジンヒョンだった。それがきっかけで、中島選手のJリーグ初ゴールが記録された。

「目の前で起こったことを正直に伝えただけです(笑)」と照れ笑いしながらも、彼の中にはブレない柱のような信念があるようだった。

「もちろん私もピッチでは興奮して、いい姿の時もあれば、良くない姿を見せる時もあります。それでも、様々なシーンでプロとしての資質が試されています。選手として取るべき行動というものは確かにありますから」

 わざわざ相手チームの状況を正直に伝えるところに、彼のプロとしてのスタンスが表れている気がした。

「信頼を失ってはいけない」

「今思うとJリーグで、しかも一つのチームでこれだけ長くプレーするとは考えてもいませんでした。本当に一日一日、ベストを尽くしてきたことで、自然と時が流れたと感じています」

 2009年にセレッソ大阪に加入してから今年で14年目。なぜ一つのクラブチームでこれだけ長くプレーできるのか。その理由について聞くとこんな答えが返ってきた。

「1日でも1年でも14年でも、とにかく毎日、監督やチームメイト、スタッフからの信頼を失ってはいけないと思ってやってきました。練習場、私生活、そして試合。この3つの要素をバランスよく過ごしてきましたが、それをチームにしっかりと示すのはとても大事なことです。そうした習慣が自分にもプラスになっていますし、チームもよく見てくれているのだと思います」

 まさにプロサッカー選手のお手本。日本で努力し、結果を残して信頼を勝ち取ったからこその言葉だ。

 もう一つ、しっかり聞いておきたかったのは、なぜセレッソ大阪から一度も離れなかったのかだ。過去には複数年契約が切れるタイミングで、他クラブへの移籍話もスポーツ新聞でちらほらニュースになったのを記憶している。

「どのクラブにいても常にいい姿を見せなければならないものです。そう考えた場合、自分が一番いいパフォーマンスを見せられるのは、セレッソ大阪しかないと思うことが増えました。セレッソは、プロサッカー選手として、いい姿でサッカー人生を終えられるチームだと感じています」

 この先、いつか訪れるであろう「引退」も思い描きながら、セレッソでプレーを続けている。一つのクラブで、それも日本で14年もプレーする韓国人選手は後にも先にも、キム・ジンヒョンしかいないのではないだろうか。

練習に取り組む姿勢も入団当初から変わらない(写真・セレッソ大阪提供)
練習に取り組む姿勢も入団当初から変わらない(写真・セレッソ大阪提供)

「言葉一つで変わった見える世界」

 キム・ジンヒョンは韓国の東国大学校3年の時に、セレッソ大阪の練習に5日間だけ参加している。

 その後、強化部からすぐに「来て欲しい」と声がかかり、2009年に当時J2のセレッソ大阪に加入。192センチ、82キロの恵まれた体格で、1年目から実力で定位置をつかんだ。

 当時、「Jクラブのスカウトが韓国まで視察に訪れていた」という話を韓国のサッカー担当記者からよく聞いていたのを思い出した。

「初めて来た日本ではとても苦労しましたが、一番にぶつかったのは言葉の壁です。生活にはもちろん不安も多かったです。毎日、サッカーと日本語の勉強に必死で、余裕がなかったですね」

 大阪・難波のカフェで毎日、先生に教わりながら日本語の習得に励んだことで、環境やチームにも溶け込めるようになったという

「半年ほどで1人で基本的な生活ができるようになり、1年で聞き取りも話すこともできるようになりました。ただ、大阪弁ですけれど(笑)。辛いよりも、楽しかった印象のほうが強くて、1年はあっという間でしたよ。チームメイトとの会話、監督の指示、自分からの意思表示もそうですが、言葉が通じるだけでこんなにも環境や見える世界が変わるんだと。今までできなかったことができるようになる達成感はとても新鮮でした」

 韓国と日本は距離的に近いとはいえ、生活文化には様々な違いがある。

 異国のサッカーで結果を残すには、環境に慣れることは特に重要であり、まずは言葉の壁をクリアしたことで、大阪の街も好きになった。

 当初は1人だった大阪での生活も、2017年に結婚してからは第1子となる長男を授かり、家族3人での暮らしがスタート。それがサッカーにもいい影響をもたらした部分もあった。

「私の妻も子どもも、大阪では何の不自由もなく生活ができています。家庭を持っても、自分のやることは変わりませんが、家族の力が支えになっている部分もあり、それがうまく噛み合った結果、ピッチで成熟した姿を見せられているのも感じます」

真剣な練習の中でも時折、笑顔を見せることも(写真・セレッソ大阪提供)
真剣な練習の中でも時折、笑顔を見せることも(写真・セレッソ大阪提供)

 キム・ジンヒョンは普段は私生活について多くを語らないタイプの選手だと思う。

 14年も日本にいながら、プライベートの話はほとんど報じられていない。今回のインタビューでも、家族の話になるととても恥ずかしそうだったが、家庭を持ったあとの日本生活はとても充実しているように感じられた。

 4歳になる息子にサッカーをさせたいかと聞くと、「それは自分の人生なので、子どもにやりたいことをやらせます。ただ、私の姿を見れば、サッカーに少しは興味を持つかもしれません」と少し嬉しそうに語った。

楽しくなかった小・中学のGK時代

 小学5年生からサッカーを始めたキム・ジンヒョン。なぜ、GKになったのか。その理由は単純明快だった。「運動が好きで、身長が高かったから」だという。

 少し沈黙し、「でも正直、初めは楽しいと思ったことはほとんどなかったです」と苦笑いを浮かべながら話を続けた。

「小、中学校の時は本当にGKをやるのが嫌で嫌で仕方なかったんです。私も日本でいういわゆる“昭和世代”ですから、やはり指導も練習もかなりハードで厳しかった。私たちの時代は、サッカーがうまくない人がやるという傾向もありましたし」と振り返る。

 Jリーグを代表するGKが、小、中学校のGK時代が嫌だったという発言は衝撃だったが、韓国は儒教の国で、今も先輩と後輩の関係が厳しい文化が残る。そうした背景は、キム・ジンヒョンだけでなく、多くの韓国人選手が通ってきた道だと想像に難くない。

 GKが楽しいと感じ始めたのは、高校からだという。

「2年から3年に上がるタイミングで、パワーやスピード、身長もさらに伸びると全体的な能力が高まりました。すると試合の光景が一変しました。できることが増えてからは、楽しく感じることが多かったんでしょう。総合的な能力、スキルが高くないとGKは務まりません。今では時代も変わって、GKは人気ポジションにもなってきています」

 こうした辛い時期を経てきたからこそ、Jリーグで、セレッソ大阪でサッカーに集中できる環境にありがたみを感じているのではないかと感じた。

「将来を考えるよりも今日を全力で生きる人間」と話す。だからこそ日本でこれだけ長くプレーできるのだろう(写真・セレッソ大阪提供)
「将来を考えるよりも今日を全力で生きる人間」と話す。だからこそ日本でこれだけ長くプレーできるのだろう(写真・セレッソ大阪提供)

「将来よりも“今日”をどう生きるか」

 今年7月で35歳になる。身長も高く、雰囲気だけ見れば一見、強面に見えるだろうか。チーム最年長ということもあり「若手は気軽に話してこない」と笑っていたが、伝えたいことがあるという。

「やるべきことは一つ。チームの勝利のために奮闘する姿、犠牲になる精神、試合に挑む姿勢を伝えていくことです。そうしたことを行動で示していきたい」

 この先の5年後、10年後の人生をどのように描いているのか。少し考えてから「とにかく“今日”しか見ていませんよ」と言い切った。

「今日の練習はどうだったのか、練習後に家に帰ったら子どもとどう過ごそうか、今日の夕飯は妻が何を作ってくれているのか。私は毎日を一生懸命に生きる人間ですから、サッカー選手としても毎日、ベストを尽くすだけです。それが終わったら静かに隠居したいです(笑)」

 最後にセレッソ大阪での記憶に残る出来事を一つ挙げてほしいと伝えた。

「長い歳月で一つを挙げるのは難しいです。ただ、確実に言えるのは、素晴らしい環境で、いい選手やスタッフたちと一緒にサッカーができること。とても幸せなことです」

 21歳で海を渡り、日本でプロサッカー選手として成功するため、日々全力で生きてきたキム・ジンヒョンの生の歩みはまさに“真実一路”。これからもその生き様は揺るがない。

【この記事は、Yahoo!ニュース個人の企画支援記事です。オーサーが発案した企画について、編集部が一定の基準に基づく審査の上、取材費などを負担しているものです。この活動は個人の発信者をサポート・応援する目的で行っています。】

スポーツライター

1977年7月27日生。大阪府出身の在日コリアン3世。朝鮮新報記者時代に社会、スポーツ、平壌での取材など幅広い分野で執筆。その後、編プロなどを経てフリーに。サッカー北朝鮮代表が2010年南アフリカW杯出場を決めたあと、代表チームと関係者を日本のメディアとして初めて平壌で取材することに成功し『Number』に寄稿。11年からは女子プロゴルフトーナメントの取材も開始し、日韓の女子プロと親交を深める。現在はJリーグ、ACL、代表戦と女子ゴルフを中心に週刊誌、専門誌、スポーツ専門サイトなど多媒体に執筆中。

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