阪神タイガースの野球小僧・関本賢太郎選手がタテジマに別れを告げる
会見場に入ってきた時から、瞳は赤く潤んでいるように見えた。熱い男だとはわかっていたが、声を詰まらせるくらい、言葉が紡げなくなるくらい泣いた姿を初めて見た。
会見後、「セキがあんなに泣くなんて…!」と声をかけると、「あれでもだいぶ、こらえてたんやで!」と笑いながら返してきた。
■「野球を嫌いになって辞めるのが嫌だった」
関本賢太郎選手が19年間の現役生活に別れを告げることを昨日、発表した。「自分のポテンシャルからしたら、すごくよくやったんじゃないかと思います。褒めてあげたい」。今シーズン限りでタテジマのユニフォームを脱ぐ。決意したのは、「野球が好き」という思いからだった。
きっかけは今季の2度に渡る戦線離脱だ。6月に左脇腹を痛め、復帰後また8月に右背筋を痛めた。その2度目の抹消時、「もう潮時かなという考えが芽生えた」と述懐する。
そこから9月8日に再度復帰し、10打数6安打3打点。本人も「こんなに打てるようになるとは思わなかった」というくらいの大活躍だ。
まだまだできるんじゃないか、いや、やって欲しいという周りの声に対し、「いいところで辞めるっていうのも選択肢かなという決意」と腹を決めた。「好きで小さい頃から野球を始めたけど、最後、打てなくなって野球を嫌いになって辞めるのが嫌だったというのもあります」。野球が好き過ぎるのだ。
■大型内野手からユーティリティープレーヤー、そして「代打の神様」へ
天理高校から「大型内野手」との触れ込みで入団した当初、「自信もあったし、すぐ通用すると勘違いしていた」。2000本打ちたいとか、ホームラン王になりたいとか、そういう夢も抱いていた。
「でも入ってみて通用しないな、3年もできないんじゃないかと衝撃を受けた」という。そこで“方向転換”を余儀なくされた。「それに気づけたので、19年できたのかなという気もします」。
ファームでホームランを量産していた関本選手が、気づいたらバントの名手になっていた。選球眼も磨かれ、追い込まれてからの勝負強さや、バットを短く持ってどんな球にも対応できる右打ちは見事だった。それらを見込まれ、2番を任された。ベンチの意図を汲み取り、作戦を実行に移せる頼りになる2番打者だった。
しかし数年後、最初の挫折が訪れた。「ボクが一番試合に出ていた時期というのが28歳くらいやったと思う。そのあたりを境に控えに回ったりという時期があって、引退までは考えてないけど心が折れそうになった」。そんな時、救ってくれたのが矢野燿大氏の言葉だ。「オレは29歳くらいからレギュラーになったよ」。その一言で視界が開け、「そうなんや。もう一回、頑張らなあかんな」と、気持ちを入れ換えることができた。
そして晩年は「代打の神様」として、試合を決める打席を重ねてきた。「最初はスタメンへの未練もあったので、代打だけになってしまうんじゃないかと嫌だった」というこの呼称も、「いつの日からかはすんなり、ありがたい気持ちに変わった」と、自身の受け止め方も変化していった。
その日一番の歓声で迎えられるその場面について、関本選手が初めて明かした胸の内は「恐怖心」だった。「自分で決めて勝つというのは醍醐味だけど、本心を言うと…ボクのところに出番が回って来ずに、すんなり勝ってくれたらいいのになというのが本心です」。
恐怖心と戦いながらも、それでも「いくぞ!」と言われた瞬間にスイッチが入る。ネクストでは歓声すら聞こえないくらい集中力が高まる。ヒットを打って一塁ベースを踏んだ後、ようやく解放され、そこで初めて歓声が耳に入るという。「毎回、鳥肌が立つくらいの歓声をいただいて、本当に嬉しかった」。
■阪神園芸さんへの感謝の気持ち
守備でも貢献した。内野は全て守った。05年5月から07年8月にかけては、「二塁手連続守備機会、無失策804」というセ・リーグ記録を築いた。「若い頃からグラウンドの話をよくしたよ。グラウンドにこだわりがあったなぁ。遠慮がちな選手が多い中で、意識が高いなと最初に思ったよ」。こう振り返るのは、阪神園芸さんの運動施設部・整備第一課の金沢健児課長だ。「グラウンドの硬さの感想を言ってくれたり、硬くて嫌だろうなという時も『雨対策ですね』と、ちゃんと理解を示してくれた」。
また、こんなこともあった。新しく導入した「整備カー」の爪の立ち方で、バウンドが不規則に揺れるということが起きた。それにいち早く気づいたのが関本選手だった。すぐに「あれ、怖いですよ」と告げてくれたことにより、即、改良することができたそうだ。「最近はスタメンで守らないけど、ノックを受けながら今も気にしてくれている」と、阪神園芸さんにとっても心強い味方なのだ。
そして何より、感謝の気持ちを常に伝えてくれるという。件の記録を樹立した日もそうだった。「我々への感謝を口にしてくれていた。新聞で知って嬉しかったし、仕事を誇りに思えた」と金沢課長は振り返る。
引退を決意した翌日、金沢課長に挨拶した関本選手の言葉は、「お世話になりました」ではなく、「迷惑をかけました」だったという。「迷惑じゃないわ。自慢や!」そう返した金沢課長も非常に淋しそうだ。
■やんちゃな“弟分”から、面倒見のよい“兄貴”に
若い頃は矢野氏や福原忍投手ら先輩に懐く“弟タイプ”だった関本選手も、いつしか後輩たちを引き連れる面倒見のよい“兄貴”に変貌していった。「血は繋がってないけど、本当のお兄ちゃんみたい」と慕うのは、藤田太陽氏(タイガース→ライオンズ→スワローズ)だ。1月の自主トレを6年、一緒に続けてきた仲だ。
「最初は怖いというか、取っ付きづらい感じがあった。でも今思えば、その頃のセキさんはレギュラーを獲りにいってギラついている時期。変に周りと仲良くしないっていうのがあったと思う」。それがオフに天理での野球教室の誘いを受け、一緒に参加したあたりから親交が深まった。ケガをしたら治療院を紹介してくれたり、矢野捕手に色々聞きたいけれど自分からは気後れすると言うと一緒に食事に連れて行ってくれるなど、何かと世話をしてくれた。他の投手陣も捕手や野手とコミュニケーションが取りやすいよう、関本選手が間に入って尽力したという。
自主トレには能見篤史投手や小宮山慎二捕手、柴田講平選手も参加していた。関本選手がトレーナーを手配してくれ、超音波の機械なども持ち込んでくれる。「セキさんはシーズン中の遠征先にも個人トレーナーを同行させたり、超音波の機械も持って行ったりしているから。毎日必ず当てて、ストレッチをして寝る。サプリメントも細かく摂取しているし、体のケアにはすごく気を遣っている」と、藤田氏も舌を巻く。
野菜を多く摂るなど、自主トレ中の食事管理もしっかりしている。オフにオーバーしたウェイトを絞ってシーズンに入れるよう、自主トレの段階から節制していく。「でも能見が『太らなあかんから』ってお菓子を食べるから、それにつられちゃう(笑)」。誘惑に負けないよう、お互いに見張り合っているのだとか。
■野球小僧の野球談義
食事時間の一番の楽しみは、野球談義だ。投手、捕手、内野手、外野手…それぞれの立場から意見を出し合う。「オマエの一番いい球は何?」「なんでピッチャーはこういう状況の時、こういう球を投げるの?」例を出して問うてくれる。「それがボクにとって、“いい情報”になるんですよ」と藤田氏。
「オレがバッターだったら、どう攻める?」と関本選手に訊かれることもある。「右打ちが上手いからインコースを攻めます」と答える。「でも実はセキさん、インコースめっちゃ好きで、詰まっても右にもってくし、甘かったらレフトに引っ張る。データと経験で狙いすまして打つ職人だから」と、また練り直す。
能見投手に対しては「めちゃくちゃいいスライダーを持っている。それ3球続けたら三振取れるのに、そういう配球しないの?打者は打っても3割なんだから、やってみたら」という“究極論”を投げかけることもあったという。
“野球小僧”が集まって、ずっと野球の話を続ける。「違うチームに行っても頑張れたのは、セキさんのお陰」と感謝している。
そんな兄貴の体を、藤田氏もずっと気にかけていた。「ふくらはぎを何回かやっているから。去年くらいから多くなっていた。若いうちは太ももの肉離れで終わっているのが、ふくらはぎにくるようになる。ふくらはぎをやると、踏ん張れなくなるから」。それがわかっているから、折を見ては「体、どうですか?」と尋ねた。「結構、いっぱいいっぱいやなぁ」との返事に心配を募らせていた。
引退を決めた要因に「可愛がってきた後輩の狩野が台頭してきたのもあるのかもしれない。狩野は狩野で、セキさんがいるから頑張ってこれたのもあるし」と、弟分なりに兄貴の気持ちを慮る。「まだやれると思うし、セキさんのプレーする姿、見ていたい」。淋しそうに呟いた。
■「野球が大好きです!」
「ここ数年間…引退というものを考えるようになってから…ファンの声援が…なくなったら辞めようと思っていたんですけど…最後まで大きい声援をいただいて…感謝しています…」。何度も何度も声を詰まらせ、瞼を押さえ、涙を拭ってファンの皆さんへ感謝の気持ちを伝えた関本選手。
「ユーティリティーとして、スタメンであったりとか代打・バントであったりとか、当時の監督の困った時にすぐできたというのは誇りです」。そう胸を張った関本選手。
最後に「野球は今でも好きですか?」という質問に、かぶり気味に「大好きです!」と即答した。必死のパッチで野球に向き合ってきた究極の野球小僧がまたひとり、ユニフォームを脱ぐ。
(昨年の関本選手の記事はこちら⇒http://bylines.news.yahoo.co.jp/doimayumi/20141024-00040217/