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【京都市】山科区「東海道」の日ノ岡峠にある『車石広場』で牛車、車石、米俵が観れる♪

高津商会RICALIFE&文化芸術☆プロデューサー/ジャーナリスト(京都市)

「東海道五十三次」に出てくる中に、「東海道」という通りがあります。

山科から東山を越える日ノ岡峠は、「東海道」で逢坂山を越えたあと京都の市内に入る最後の峠です。山科盆地と京都盆地を分ける峠と言われています。

今でも、自転車や徒歩で歩いて行くことがありますが、そのたびに日ノ岡峠の坂で汗だくになりますw

この辺りの「東海道」では、大津側に逢坂峠、京都側に日ノ岡峠があり、通行の難所として知られていました。

その途中に、突如、米俵や牛車、車石などが現れます…

『車石広場』と呼ばれるこの広場には、牛車、車石、米俵が再現されています。

江戸時代、ここを牛車(ぎっしゃ)が荷物を運ぶ道でした。

江戸時代に入ると、通行をスムーズにするために、歩道と車道が分けられ、車道は一段低いところに通されました。

その当時、重さ300の牛車に米俵9俵(540)を積むのが一般的だったそうですよ!

また、年間二万輌以上の牛車が往来していたようで、そのため、道はえぐられ、丸く深い溝をつくっていったそう。

雨が降るとぬかるんで牛車が動かなくなったことから、車石が置かれて、牛車の車がちょうど通るレールのような石が敷き詰められました。

広場から道路を挟んだ反対側の壁には、車石と書かれた壁が見れます。

当初はどこにあるのだろう、と思っていましたが、石は道路の溝石や峠道の保護壁などに転用され、日ノ岡峠には、今もその車石が壁に使用されていまのが見れます。

この牛車の道を整える車石を作るきっかけに、木食正禅上人が、が深く関わっていたそうです。

上人は貞亨4(1687)年に丹波国保津村に生まれ、高野山で木食行を修めた後、梅ヶ畑の庵を拠点に各地の墓所等で念仏回向を行っていた。当時、粟田口に大きな刑場があり、ここを訪れた上人が通行に難渋する人々を見て、改築を発願したと言われる。
上人は庵を日ノ岡に移し(後に庵を廃して木食寺を建立)、道路の管理を継続するとともに往来する旅人の休憩に供して湯茶の接待をし、牛馬にも水を与えた。

木食正禅上人は、道を行く人や牛たちが苦労しながら峠を行き来するのをみて、浄財を募り、日ノ岡峠道(亀の水不動尊辺り)の急勾配の緩和や敷石舗装などに取り組みました。

1738年完工し、それを基礎にして車道に部分的に敷石が敷設されました。

文化2(1805)年に敷設された車石は、三条街道は明治8年~9年の間に撤去され、車石は道路の溝石や峠道の擁壁、橋台石垣などに転用されたと地元の方に説明を受けます。

そういえば、東海道沿いの私の知り合いの家の壁にも車石が使われています。

しかし、車石に関してはまだまだ解明されていない不思議がいっぱいあるそうで、誰の発案でスポンサーが誰かはわからないそう。

ある人気テレビ番組でも特集されてお昼の顔だった有名タレントさんが解明しようとされていました。

京都にはまだまだ不思議がいっぱいありますね〜

「車石広場」は、私がまだ幼少のころにはありませんでした。

平成9年(1997)京都市地下鉄東西線の開通に伴い、京阪電車京津線の三条~御陵間が地下化したのに伴い、旧線路用地を利用してつくられたものです。

東海道の探索の際にはぜひ♪

日ノ岡峠 車石広場
京都市山科区厨子奥花鳥町1−1

LIFE&文化芸術☆プロデューサー/ジャーナリスト(京都市)

京都で生まれ育つ。世界各地を周遊、欧米中心に20年ほど滞在し京都に帰還。日本のコアな伝統文化や芸能、神社仏閣や裏歴史、催事らを国内外の旅サイト・雑誌・新聞で執筆。経験に基づく“陰謀説”の電子書籍出版あり。フォトジャーナリスト、写真映像家、音楽・イベントプロデューサー、特殊ツアープロデュース・ガイドから日本庭園庭師までマルチに活躍。日本映画の発祥時より美術に携わってきた”ジャパニーズハリウッド”京都太秦にある老舗『髙津商会』にて映画・美術装飾・アート&エンタメ、海外事業に携わりつつ伝統文化・芸能などに関わる史実や古美術らについて勉強中。『京愛』や『日本愛』を深め世界進出を夢見る毎日。

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