【日本酒の歴史】遂に世界に羽ばたいていった!江戸時代の日本酒の海外輸出について
浮世絵の田植え風景に見えないほど、現実はもっと奇想天外な酒の物語で満ちています。
室町時代中期、京都の喧騒を離れ、摂津国の猪名川上流に位置する伊丹、池田、鴻池。
そして武庫川上流の小浜や大鹿といった地に、僧坊酒の静かな伝統を引き継ぎつつ、新たな「他所酒」が誕生し始めたのです。
これらの酒郷は、まるで魔法のように「摂泉十二郷」として一大酒造地へと成長を遂げ、その名を後世に轟かせました。
池田郷の物語は特に興味深いです。
古文書によれば、飛鳥時代の朝廷造酒司の酒部たちが細々と造っていた酒が、室町時代に入り需要が急増します。
縁者たちが摂津で酒造りを始め、その質の高さから池田郷の酒造家たちは一躍有名に。
彼らの手によって奈良流の諸白が改良され、効率的な清酒の大量生産技術が生まれたのです。
1600年、伊丹の鴻池善右衛門が開発したこの技術は、まさに酒が一般大衆にも手に届く時代の幕開けを告げました。
さらに、朱印船貿易の波に乗って日本酒は東南アジア各地へと輸出されました。
バタヴィアでは、日本酒は食前酒として親しまれ、現地のワインと並び称される存在となったのです。
異国の地で培われた「アラキ」という名の酒も登場し、その正体はアラビアのアラックか、摂津伊丹の銘酒か、謎に包まれています。
こうした国際色豊かな酒の交流は、後の江戸時代の朱印船貿易へと繋がり、日本酒はますますその存在感を増していきました。
一方、四季醸造という技術が江戸時代初期に確立され、年に五回、春夏秋冬と季節ごとに異なる酒が造られるようになりました。
しかし、酒造りは大量の米を必要とするため、幕府は酒造統制を強化。
1657年には酒株制度を導入し、酒造業を免許制にしたのです。
さらに1667年には寒造りが確立され、1673年には寒造り以外の醸造が禁止される「寒造りの禁」が施行します。
これにより、四季醸造は一時途絶え、冬季に限られた酒造りが主流となったのです。
この時代、江戸では専門の酒問屋が成立し、「商人の酒」として商品化された酒が大量に流通します。
一方大阪では造り酒屋が問屋を兼業し、専門問屋はあまり見られませんでした。
酒屋たちは資本力を持ち、金融業者としての一面も併せ持ちながら、杜氏を請け負う農民たちと共に地域ごとの特色を生かした酒造りを続けたのです。
しかし、酒株制度には酒造石高を巡る問題が潜んでおり、幕府は1697年の元禄の酒株改めでこれを徹底します。
運上金を課せられた酒屋たちは、ますます厳しい統制下で酒造りに励むこととなりました。
それでも、他所酒、つまり地酒は各地で独自の発展を遂げ、摂泉十二郷としての地位を確固たるものにしたのです。
これらの地酒は、各地の風土や気候を反映し、まさに地域ごとの個性豊かな味わいを持つ宝石のような存在となりました。
こうして、他所酒と摂泉十二郷の形成は、日本酒の多様性と奥深さを象徴する一章として歴史に刻まれたのです。
浮世絵の田植え風景に隠れた酒造りの風景は、今もなお地域ごとの酒蔵で静かに息づき、時代を超えて人々の心を酔わせ続けています。
参考文献
坂口謹一郎(監修)(2000)『日本の酒の歴史』(復刻第1刷)研成社