李登輝氏が話す「日本語」の意味とは 「親日家」と表現して報道する違和感
「明治天皇崩御と同じ日ですね」
7月30日夜、「李登輝さんが亡くなりました」と教えてくれたのは、ちょうどやりとりしていた台湾人の仕事仲間だった。直後には、LINEのグループにも一報がもたらされ、1人が言った。「明治天皇崩御と同じ日ですね」。日本人の筆者は教わることばかりだ。
あの日から連日、台湾にあるテレビ各局はこぞって、その生涯や政治手腕、あるいは民主化の道のりをまとめた追悼番組を放送した。番組だけでなく局が違っても、使われる映像には同じカットがあることに気づいた。中でも印象的なのは、1988年1月13日、蒋経国が亡くなったことを伝える姿だ。
「おそらく同志のお一人お一人も、私同様、極めてお辛いものとお察しします」
涙を堪えようとするがゆえに、途切れ途切れになった発言からは、心の底からの悲しみが感じられた。一方で気づいたのは、李氏の口調である。話しているのは紛れもなく中国語なのだが、台湾語話者に特有の発音のクセがあった。
台湾社会におけるエリートと言語の関係
日本では一般に、台湾は中国語圏として知られるが、その実態は多言語社会だ。学校教育における中国語が徹底されたことで、今でこそ中国語使用者は多いが、世代や地域によっては台湾語使用者も少なくない。このほかに政府認定で16の原住民族や外国人労働者などのエスニックグループを含めると、言語数は20を超える。
李登輝氏の生まれた1923年といえば、日本が台湾統治を開始した1895年から数えて28年、台湾社会の公用語が日本語だった時代だ。公文書は日本語で書かれ、学校教育でも日本語が用いられた。日本語は、世の中に敷かれたレールを昇っていくためのツールだった。
表向きはそうなのだが、台湾人の日常においても日本語が使われていたのかというと、そうではない。話されていたのは、台湾語だった。また、日本語で学校教育を受けること自体、経済力のある家庭の子弟の証でもあった。
こうした歴史的社会的背景について、台湾師範大学で台湾の近現代史を教える王麒銘さんは次のように言う。
「李登輝さんが生まれたのは、日本統治時代中期にあたる1920年代だったのも大きな意味があると感じています。もしそれより前なら基本的に日本教育を受けた世代は抗日運動に向かいましたし、彼よりあとに生まれた世代は、抗日運動にかかわる機会さえありませんでしたから」
李登輝氏は、日本語社会で日本語を頼りに、公学校、中学校、旧制高校、そして日本の京都大学まで行った超のつくほどの日本語エリートだ。当時の台湾人の進学率は、台湾人というだけで日本人より遥かに低かった。
「時代とともに、初等・中等学校における台湾人の進学率は若干上がるのですが、高等教育に関しては、大きく事情が異なります。医学部は台湾人が比較的多いのですが、それ以外の高等教育を希望するなら、内地留学などに行くしかない、というのが実情でした」
例の医学部の女子受験生一律減点も比ではないほどに差別のあった時代である。
第二次世界大戦の終戦に伴って台湾は中国へと引き渡され、1949年に蒋介石が台湾へと逃れてきたことで事態は一変する。1945年を境に、日本語社会だった台湾は中国語社会に取って変わり、台湾語を母語としながらも日本語でエリートとして育った人たちは退けられ、中国語の強者が社会の強者になった。李登輝氏は戦後、アメリカに留学して英語を身に付け、学位を取得して台湾へ戻った。台湾政界で活躍するのは、しばらく後の話だ。
台湾語と中国語の関係
戦後の台湾では、日本統治下と同じように、学校での台湾語使用が禁止されていた。このことについて、李登輝氏本人が作家の故・司馬遼太郎との対談でこう説明している。
李氏の長男・李憲文氏は1950年生まれ。残念ながら若くして癌を患い、1982年に亡くなっているが、彼と同世代の人たちは少なくともこの「台湾語を話したら罰せられる」体験を持つ。もともと台湾語と日本語で育ってきた父の李登輝氏にとって、1988年に中国語で公の場で発言をする立場になる--壮絶な道だったことは想像に難くない。
一方、政界引退後の台湾におけるインタビューや公の場での発言は、台湾語の使用が多い。先述の書でまた、こうも言う。
東京で地方人同士、同じ言語圏出身とわかった瞬間、親近感はぐっと高まる。逆に言えば、同じ日本語でも、東京の人が京都で京都弁を真似ようとしても、どこかでわかってしまう、あれに似ている。
この、李登輝氏の言葉の使い分けについて、1978年生まれの王さん自身、母語は台湾語だが、学校教育で中国語を、日本留学の間に日本語を身に付けた経験から次のように言う。
「李登輝前総統の台湾語でのスピーチは、中国語のスピーチに比べると、表現の深さが異なります。今の政治家に対する記者会見ともなれば、台湾メディアによって多方面から質問を向けられますが、80年代後半から90年代にかけては報道陣も今ほど多くなく、政府によってメディアはコントロールされていました。ですから、想定外の質問が来ることはほとんどなかった。李登輝さんは、蒋経国との縁で政務委員となって、各地の農家や自治体の人など、さまざまな階層の人たちとコミュニケーションする際に、台湾語で直接やりとりできた。これは中国語話者だった国民政府の政治家にはできなかったことです。そういった経験は、李登輝さんが意識して言葉を使い分ける背景にあったのではないでしょうか」
1949年から1987年まで、台湾には戒厳令が敷かれていた。戒厳令が解除された翌年の88年に李登輝氏が総統に就任した当時、台湾の総人口はおよそ2000万人。このうち、85%は氏と同じ本省人だったが、政権を握っていたのは残り10%弱の外省人だった。「省籍矛盾」といわれる所以だ。現代の多数派民主主義では考えられない逆転現象だが、これは日本統治時代末期、台湾の総人口600万人のうち40万人の日本人が台湾を治める立場だったのといわば同じ構造にあったともいえる。
李登輝氏は政権内での派閥争いにおいては劣勢だったかもしれない。台湾の民主化に向けて、直接選挙へと社会が進む中で、自らの持つ台湾語のパワーを意識したのは、むしろ当然だったのではないか。
王さんも「台湾の政治家であれば、中国語と台湾語の使い分けは十分に意識しているはずです」と言う。今やその2言語に限らない。現総統の蔡英文をはじめ、台湾の政治家には英語を自在に操る人材が多い。これもまた、外交上、常に厳しい立場に立たされる台湾にとって欠かせないツールとなっているに違いない。
そういったことから考えても、日本統治下の台湾で日本語を身につけたエリートとして、日本人に対し日本語を使う効果は、十二分に意識したうえだったと思えてならない。
教養を身につけた旧制台北高等学校
先の司馬氏との対談からもうひとつ、紹介しておきたい下りがある。
調べてみると、岩波書店には1993年から1994年にかけて「岩波講座 社会科学の方法」という全12巻のシリーズがある。対談が行われたのは1994年だから、これに間違いなさそうだ。執筆者は山之内靖、鶴見和子、橋爪大三郎各氏と論客揃いである。
戦後49年経ってもなお、日本の第一線の論陣の書物を読んでいた李登輝氏の、言語力もさることながら、その教養はどのようにして養われたのだろうか。
この由来について2012年10月13日に行われた、李登輝氏のスピーチが残されている。「台北高等学校創立90周年 国際学術研討会」の席上だった。
考える基礎となった教養と哲学は、のちに政界を巧みに泳いでいく道標となったはずだ。しかも、日本政府から国民政府へと政界の激変を見聞きした経験も、見逃せない。王さんはこうも言う。
「新型コロナ対応で、台湾にはSARSの経験があったのが大きかった、という指摘がありますよね。李登輝さんはその時に政治家ではなかったにせよ、政治体制が大きく変わる経験を持っていたことは、蒋経国が亡くなったあと、何が起きるか見通す力になったといえますね」
戦後75年、李登輝氏と同じ経験を持つ世代の台湾人はどんどん少なくなっている。台北高等学校の4年後輩で、台北賓館の献花台に訪れた人物がいる。台湾総統府の資政を務めた辜寛敏氏だ。次のように中国語で弔辞を述べた。
「私と李登輝さんは兄弟のようでした。私が学校の後輩であっただけでなく、切っても切れない同志の間柄でもありました。李登輝さんが逝った今、我々年寄りの出る幕はない。ここで台湾の若い世代に今一度、申し上げたい。台湾の未来は、あなたたちの肩にかかっています」
香港情勢が激化し、次は台湾かと危ぶまれる台湾で、李登輝氏と同世代の人が、台湾人に向かって語りかける中国語は、なんと重いことだろう。
李登輝氏逝去の報を伝える日本メディアの文章には「日本人だったと公言」「親日家」「流暢な日本語」と、まるで他人事のような表現が並んだ。1895年から1945年まで台湾が日本だった事実さえ、日本の歴史教育はおろか、メディアでも報じられないのかと思うと、やりきれない思いだった。
ともあれ、李登輝氏の満98年に及ぶ人生は、台湾の近現代史でもある。敬虔なクリスチャンであった李登輝氏が、安らかに眠れる台湾であることを心より祈念したい。