クソアニメ『ポプテピピック』を生んだアニメの成熟──そのパロディ性とシュール性が意味すること
「どうあがいても、クソ」
今季のテレビアニメでもっとも盛り上がっているのは、やはり『ポプテピピック』だろう(一部地方局・AbemaTV・Netflix・ニコニコ生放送などで放送・配信中)。この大川ぶくぶによるマンガのアニメ化は放送前から大きな期待を集めていたが、見事に大ヒットした。
主人公は、セーラー服を着たポプ子とピピ美という2頭身のキッチュなキャラクター。物語なんてろくになく、シュールかつ乱暴な言動を繰り広げる。キャッチコピーは「どうあがいても、クソ」──そんな作品が、アニメシーンで大きな注目を浴びている。いったい、これはなにか?
パロディ性とシュール性
ざっくり指摘すれば、『ポプテピピック』にはふたつの特徴がある。ひとつがパロディ性、もうひとつがシュール性だ。
まず前者だが、それは「アニメ(番組)」というジャンルに極めて自己言及的な点だ。第1話ではいきなり架空の青春ラブコメ『星色ガールドロップ』というアニメが始まる。オープニングでは制作者のクレジットまで出す念の入れようだ。
最新のアニメで過去のアニメをパロディにする──これはここ最近目立ち始めた手法だ。記憶に新しいところだ、一昨年に大ヒットした『おそ松さん』がそうだった。この作品はそもそも赤塚不二夫の『おそ松くん』を原作としているが、それを現代風にアレンジし、さらに作中で多くのパロディを繰り広げた。
またこの第1話では、前半10分の内容を途中から繰り返した。中身はまったく同じだ。従来のテレビ番組では放送事故と見なされてしまいかねないことをやったのである。つまり、「アニメ番組」という枠組みそのものを撹乱するかのような表現だ(※)。
次にシュール性とは、2人の主人公のキャラクター性はもとより、その表現内容自体のことだ。一見可愛いキャラクターのお決まりのポーズは中指を立てることだが、そのドタバタな内容に強い意味はなく、ひと昔前であれば「不条理ギャグ」と言われたたぐいである。
※……とは言え、この番組は放送と同時に無料・有料の多くの動画配信サービスで配信されている。テレビ“番組”ではあるが、テレビ“放送”だとは限らないあたりが、現代的だ。
ジャンルとして成熟したアニメ
パロディ性とシュール性──これらの構成要素が大ヒットに結びついていることは、アニメの成熟を意味する。
過去のリソースがあるからこそパロディも可能となり、「アニメ番組」の枠組みの撹乱も視聴者のこれまでのアニメ体験があるからこそだ。『ポプテピピック』の登場は、歴史的な蓄積の結果だ(逆に言えば、それはハイコンテクストでもあるので、アニメファン以外にはハードルは決して低くはない)。
シュール性も、「王道」や「ベタ」とされるアニメ作品があるからこそ、オルタナティブ(傍流)として機能する。マンガの歴史では、手塚治虫がその中心にいたからこそさいとう・たかを(劇画)というカウンターが登場し、そして90年代に吉田戦車(不条理ギャグ)が現れた。そうしたプロセスと重なる。
お笑い番組の視聴者にとっては、中年以上のひとであれば80年代のとんねるずのパロディによる人気や90年代のダウンタウンの不条理コントなどを思い起こすだろう。その強い既知感によって懐かしさを抱く人もいれば、逆に拒否感を抱くひともいるかもしれない。
しかし、若者のなかには今回がはじめての経験であるひとも多いはずだ。アニメにおいてここまでの“悪ノリ”ははじめてだからだ。それはジャンルとして成熟したからこそ可能なのである。
“アニメ内サブカル”の向かう先
問題はこの後だろう。
こうした表現は、概して差異化の果てに出てくるものだ。“悪ノリ”は、一発目だからインパクトはあっても、これを続けても縮小再生産にしかならない。すぐに飽きられるからだ。もちろん、シュールさを洗練させる方向ももちろんある。ただ、こっちも『ヒミズ』以降の古谷実レベルのようにならないかぎりけっこう厳しい。
同時に、こういう作品は「王道」や「ベタ」がネタ切れになったときに生じる現象でもある。『ポプテピピック』自体に罪はないが、こうした作品が出てくる現象自体はジャンルの成熟ではありながらも、同時に「疲れ」でもあるからだ。
この作品は、けっしてオルタナティブ以上のものにはならない。要は“アニメ内サブカル”なのである。よって、こうしたものの存在と同時に、メジャーな作品を生み出していくことは確実に必要だ。メジャー(「王道」「ベタ」)がなければ、『ポプテピピック』も存在理由を失うからだ。
もちろん、もはや日本のコンテンツビジネスの中心にあるアニメなので、当分は大丈夫だろうけども。