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生と死を包み込むもの「親子における結論の出ない問題をどうしたものか」

ひとみしょうおちこぼれの哲学者・心理コーチ・作家

2011年11月21日に愛犬が亡くなりました。その翌日、私はなぜか、文章を書いて飯を食えるようになり、以降その状態が続いています。亡くなった人は残された者の不幸を天国に持ち去ってくれると言われますが、まさにそのとおりでした。

祖父とコオロギ

2000年前後だったでしょうか、祖父が亡くなったとの知らせを受けた翌朝、喪服に着替えて出かけようとしたまさにその時、ふと天井を見やると、そこにぶら下がる電灯の傘にコオロギが止まっていたのを今でも覚えています。当時住んでいたアパートの部屋は1階であり、大きな掃き出し窓の向こうには大家さんが所有する小ぶりの雑木林が広がっていました。しかし、昨夜もその前もその窓を開けたことはありませんでした。どこから侵入したコオロギなのか。もしかすれば祖父の魂がコオロギに仮託して私の様子を見に来たのではあるまいか。

私が精神とか魂とかと言われるものをわりとすっと受容できるのには、あるいはこうした体験が関係しているのかもしれません。いや、もともとそういう体質だからそうした体験をしたのかもしれません。

いずれにせよ、精神とか魂とかと言われているものをすっと受容できるものだから、42歳で哲学に出合って以来、その類の哲学をわりと感覚的にすっと受容してきました。

哲学は生と死を抱え込むほど大きなもの

ある種の哲学は生活の中から生まれました。例えばキルケゴールの哲学は、彼がみずからの出自に苦悩するところから生まれました。すなわち彼のエモーションから生まれました。とすれば、哲学は生と死を抱え込むほど大きなものであり、それはロジックを超えるものであり、超えた分に関しては心で感じるしかないものであると言えます。

キルケゴールのパブリックイメージは「キリスト教を熱心に信仰しつつも神に抗った人」というものだと思われますが、その根底には祈りがあったように思います。デンマーク国教会に反抗しつつも彼は、誰よりも熱心に信仰した。つまりそこには祈りがあった。それは亡き両親に対する祈りではないかと私には感じられます。

ところで、親子問題に目を転じた時、そこには祈るしかない問題が多いように感じられます。私は夜はオンライン家庭教師として高校生たちに国語と英語を教えていますが、じつにさまざまな生徒がいます。親から託された夢の重さに耐えきれず、声を上げることすらできない生徒もいれば、親子で進路に関する意見が食い違い、それをどうすることもできない生徒もいます。何がつらいのか具体的には言わないものの「その親の子」であることそれ自体がつらいと思っている生徒もいます。

祈るということ

亡き人に祈ることは直接的な問題解決をもたらさないかもしれません。しかし親子の問題はそこに親子の関係がすでに前提されている、すなわち「関係」の問題であるからして、例えば心療内科に行っても解決しないはずです。行けばあなたは胸のすく思いがするかもしれません。しかし問題の解決には至らないでしょう。

生活をしている人が悩んでいる以上、そこには精神や魂といったものを含んだ何らかの問題が内包されています。そこを哲学してみてはいかがでしょうか。哲学のしかたがわからないのなら、まずは亡き人に祈ってみてはいかがでしょうか。祈ることがよくわからなければ、亡き人と心の中で会話をしてみてはいかがでしょうか。

哲学は生と死を抱え込むほど大きなものです。それは生活の中から生まれました。

おちこぼれの哲学者・心理コーチ・作家

8歳から「なぜ努力が報われないのか」を考えはじめる。高3で不登校に。大学受験の失敗を機に家出。転職10回。文学賞26回連続落選。42歳、大学の哲学科に入学。キルケゴール哲学に出合い「なぜ努力が報われないのか」という問いの答えを発見する。その結果、在学中に哲学エッセイ『自分を愛する方法』『希望を生みだす方法』、小説『鈴虫』が出版された。46歳、特待生&首席で卒業。卒業後、中島義道主宰「哲学塾カント」に入塾。キルケゴール哲学を中島義道先生に、ジャック・ラカンとメルロー=ポンティの思想を福田肇先生に教わる(現在も教わっている)。いくつかの学会に所属。人見アカデミー主宰。

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