武村正義さんと琵琶湖条例。受け継がれる水への思い
豊かさや便利さを追求してきた生活観に反省を加え
9月28日、武村正義さんが亡くなった。武村さんは、細川内閣の官房長官、村山内閣の蔵相を務めたが、「政治家として面白かったのは滋賀県知事時代」と語っていた。
数々の業績のなかで印象深いのは「琵琶湖富栄養化防止条例」(琵琶湖条例)の制定だ。とくに条例の前文には、武村さんや市民活動をしていた人々の水への思いが込められている。
「われわれは、豊かさや便利さを追求してきた生活観に反省を加え、琵琶湖のもつ多面的な価値と人間生活のあり方に思いをめぐらし、勇気と決断をもつて、琵琶湖の環境を保全するため総合的な施策を展開する」
この思いは、現在の琵琶湖を守る活動に受け継がれている。
条例制定までの道のりや、現在への影響を考えてみたい。
1977年5月27日は蒸し暑い日だった。
この日、琵琶湖の水面に褐色の帯がただよった。帯はみるみるうちに幾重にも重なり、湖面から魚が腐ったような臭いがした。コップで帯をすくうと、水に溶けなかったインスタントコーヒーのような粒が浮いていた。
琵琶湖は日本最大の淡水湖で、近畿地方の人々の命を支える水瓶。
かつて「碧い」と言われた水面は、沿岸域の開発にともない汚染が進んだ。住民からは水道水の異臭味に関する苦情が寄せられ、水質についてさまざまな測定結果が示されていたが、ついに深刻さは目に見えるようになった。
顕微鏡で見るとゴルフボールに毛が生えたような生物がいた。ウログレナ・アメリカーナ。富栄養化した湖は、大規模な赤潮を起こすまでになっていた。
「これは大変なことになった」
市民は事実を重く受け止めた。
赤潮発生後、京都大学農学部の門田元教授らが、ウログレナについて調べている。このプランクトンは長さの異なる2本の細かい毛(鞭毛)を動かし移動する。
細胞中に眼点という光を感じる組織をもち、光に向かって移動する性質があり、風が穏やかな晴れた日には水面に集まる。そういうときにウログレナの増えやすい水温(15~20度)に上昇すると赤潮が発生しやすくなる。
ウログレナの主な発生原因はリンと窒素ということもわかった。
家庭発の水質汚染
赤潮発生の2年前(1975年)に、滋賀県は、どこからリンが流入するのかを調査していた。その結果、予想された工場排水、農業排水を抑え、家庭排水が48%とトップになり、その3分の1以上を合成洗剤が占めていた。
1970年代は水俣病や四日市ぜんそくなどの公害問題が発生したが、原因が家庭にあるのは初めてだった。
滋賀県地域婦人団体連合会(現・県地域女性団体連合会)は赤潮発生の5年以上前からリンを含む合成洗剤を問題視していた。
理由は主に健康面。女性の手荒れや赤ちゃんのおむつかぶれが起こるとして、「合成洗剤を買わない、使わない、贈らない」の「3ない運動」を進め、粉せっけんへの切り替えを訴えた。
しかし、そこには2つのハードルがあった。
1つは、粉せっけんは合成洗剤に比べて1割ほど高価であること。
もう1つは洗濯の仕方が難しいこと。水に溶けにくく、とくに冬場はお湯を使わないと汚れが落ちないし、洗濯機の内側に赤黒い垢が残ってしまう。
結果として不便をすすめる運動の広がりは鈍かった。
市民が犠牲を払って自らの過ちを正す運動
そんなときに赤潮が発生した。健康問題から始まったせっけん運動は、赤潮を機に環境問題に広がり、活動は勢いを増した。
赤潮発生から1年後の1978年6月1日、滋賀県の合成洗剤対策委員会は「合成洗剤に変わる有効な代替品として粉せっけんの使用をすすめるべき」という提言をまとめ、さらに生活環境部次長が県議会で、合成洗剤を規制する条例を設けるには「県民の50%以上の協力が条件」という見解を示した。
当時の粉せっけん使用率は約10%。それを50%以上に引き上げることが、せっけん運動の目標になった。
運動の中心は女性たちだった。
同年8月、女性団体や消費者グループ、商工団体、農協、労働団体からなる「びわ湖を守る粉石けん使用推進県民運動」県連絡会議が結成された。
女性たちは県内各地で合成洗剤の学習会、粉せっけんの宣伝活動、街角での洗濯講習会を開いた。中にはトラックに洗濯機を載せて地域を回る人もいた。
当時、滋賀県知事だった武村正義さんは、運動する市民の声に耳を傾けた。
10%に過ぎなかった石けん使用率は、1979年4月に40%、80年に70%を超えた。
ともすると市民活動は行政に反対意見を述べるだけになりやすい。だが、せっけん運動は市民が犠牲を払って自らの過ちを正す運動であり、自治そのものだったといえる。
富栄養化防止対策は公共の福祉
武村知事は有リン合成洗剤を規制できないかと考えていた。
海外の先例を調べると、米シカゴ市でリンを含む洗剤使用が全面的に規制され、西ドイツでは法律で洗剤の成分や使用量を規制していた。
自治体には憲法94条に認められた条例制定権があるが、条文は「法律の範囲内で」とされている。県職員が中央省庁に相談すると、自治省(現総務省)、洗剤メーカーを所管する通商産業省(現経済産業省)、環境庁(現環境省)は、条例制定を疑問視した。
「有リン合成洗剤と琵琶湖の赤潮との因果関係が科学的に証明されているのか」
「自由に売られているものを、特定の地域で規制したという前例がない」
「憲法の営業の自由(職業選択の自由)に抵触する可能性はないか」
省庁のコメントは後ろ向きだった。
逆風のなかで武村知事が注目したのは「富栄養化」だった。
「合成洗剤だけを敵視するのは問題だが、琵琶湖を守るための富栄養化防止対策は公共の福祉に当たる」というわけだ。
公共の福祉という大義名分のもと、工業も農業も規制の対象としながら家庭での合成洗剤使用を規制しようというわけだ。
武村知事は1979年3月の県議会で「秋をめどに琵琶湖の富栄養化防止条例を制定したい」と表明した。
合成洗剤メーカーの反発
合成洗剤メーカーにとって規制は不本意だった。
各社でつくる日本石鹸洗剤工業会は、知事が条例制定を表明すると、合成洗剤の規制を削除するよう求めた。
その理由は次のようなものだった。
「琵琶湖の水質改善に必要な下水道普及率はわずか4%に過ぎない」
「粉せっけんに変えて水質が改善される科学的な裏づけはない」
「洗剤販売業者は営業活動を阻害され、条例は憲法に保障される財産権と職業選択の自由を侵す」
工業会は条例反対キャンペーンをはじめた。合成洗剤の安売り、新聞への意見広告、折り込みチラシ、県民へのダイレクトメールなど。このキャンペーンには大金が投入された。
条例前文に込められた思い
武村知事は条例制定準備は粛々と進めた。条例案は全32条。工場や農業などの排水を規制し、家庭用の合成洗剤については使用、贈答、販売を禁止する内容だ。洗剤に関しては販売業者の罰金が盛り込まれた。
この条例には、次のような「前文」がつけられている。
「水は、大気、土などとともに人間生存の基盤である。
この水を満々とたたえた琵琶湖は、日本最大の湖として、われわれに大きな試練を与えながらも、限りない恵みをもたらしてきた。
この琵琶湖が、近年、急激な都市化の進展などによって水質の悪化、とりわけ富栄養化の進行という異常な事態に直面している。
しかも、それは、琵琶湖自身の自然の営みによるものではなく、琵琶湖流域に住む人々の生活や生産活動によって引き起こされている。
悠久の歴史をつづりながら、さまざまな人間活動を支えてくれた琵琶湖を、今、われわれの世代によって汚すことは許されない。
水は有限の資源であり、琵琶湖はまさにその恩恵に浴する人々にとつての生命源であり、深い心のよりどころである。
われわれは、幾多の困難を克服して、この水と人間との新しい共存関係を確立していかなければならない。
いまこそ、われわれは、豊かさや便利さを追求してきた生活観に反省を加え、琵琶湖のもつ多面的な価値と人間生活のあり方に思いをめぐらし、勇気と決断をもつて、琵琶湖の環境を保全するため総合的な施策を展開することが必要である。
琵琶湖とともに生き、琵琶湖を愛し、琵琶湖の恵みに感謝する県民が環境保全の意識に目ざめ、今、ひたむきに創造的な活動を繰りひろげている。
われわれは、この自治と連帯の芽を育てながら、一体となって琵琶湖を守り、美しい琵琶湖を次代に引き継ぐことを決意し、その第一歩として、ここに琵琶湖の富栄養化を防止するための条例を制定する。」
議会内には条例そのものに反対する声はなく、焦点は、罰則規定に絞られた。
削除を求める意見、それでは骨抜きになるという意見があり、議論の結果、販売禁止違反の罰則について、1年間は慎重に対処するなどの付帯決議がついた。こうして10月16日に「琵琶湖富栄養化防止条例」(琵琶湖条例)が成立した。
ところが洗剤メーカーは大きく舵を切った。
リンを使わない商品を開発し、量産体制が整うと、テレビCMで無リン合成洗剤の拡販キャンペーンを始めた。
すると条例施行時に70%台に達していた粉せっけん使用率は、その後2年間で20%ほど低下した。
無リン洗剤の登場によって「合成洗剤による琵琶湖の汚染問題は解決した」との印象を人々がもった。
琵琶湖条例が残した思い
滋賀県で取材をすると、「琵琶湖条例が住民運動の目標を奪ってしまった」という声を聞くことがある。条例制定のために粉せっけんの使用率を上げるという目標に向かって走り、それが達成できたところで、無リンの洗剤が登場した。「目標は達成できたけれど、琵琶湖を守ろうという目的は遠のいた」という人もいる。
それでも、せっけん運動と琵琶湖条例がなかったら、日本各地の河川や湖沼は、有リン洗剤の使用により、より汚染が進んでいただろう。
活動の目的、目標の設定は難しい。社会を変えるには大きな絵を描くとともに、誰もが同意し行動できる小さな一歩を設定する。小さな一歩は常に大きな絵を描くためでなくてはならない。
メーカーが無リン合成洗剤の販売を始めたことで、運動は下火になったが、その後も琵琶湖を守ろうという活動がなくなったわけではない。そして、その思いは現在に受け継がれている。
目的達成のために活動は少しずつ変わっていった。
たとえば、生活雑排水が垂れ流しになっていることから、し尿と雑排水を一緒に処理する合併浄化槽の設置推進を求める運動を行った。
全国初の環境専門の環境生協も設立した。事業は合併浄化槽の設置推進、廃食油せっけんなどリサイクル商品の供給、廃食油を生成して自動車燃料をつくるプラントの開発など多岐にわたる。
現在では多くの関係者がつどい、いっしょに琵琶湖の未来を思い描いている。まさに「琵琶湖とともに生き、琵琶湖を愛し、琵琶湖の恵みに感謝する県民が環境保全の意識に目ざめ、今、ひたむきに創造的な活動を繰りひろげている。」
1つ1つの活動が琵琶湖を守ることにつながっていく。1970年代にせっけんの活動をはじめた人たち、その人たちの声を真剣に聞いて条例制定に動いた武村正義さんの思いは今に生きている。