現役藝大生が振り返る「麻布」での最後のメッセージ
新型コロナウィルスの第三波が到来しているともいわれるなか、中学入試募集をする各校ではオンラインでの学校説明会を行っている。なかでも麻布中学校の学校説明会ビデオには、錚々たる卒業生の面々が出演していることが話題になっている。
・テレビで人気の謎解きクリエイター・松丸亮吾さん
・金星探査機「あかつき」衛星主任・中村正人さん
・東京海上ホールディングス取締役社長・小宮暁さん
・元自由民主党総裁・谷垣禎一さん
・日本テレビアナウンサー・桝太一さん
・ベストセラー『1分で話せ』の著者でYahoo!アカデミア学長の伊藤羊一さん
・建築漫画家・芦藻彬(本名:篠原彬)さん
(以上出演順)
谷垣禎一さんと伊藤羊一さんには拙著『麻布という不治の病』でもインタビューに協力してもらっている。拙著のなかではほかにも元文部科学次官の前川喜平さんや社会学者の宮台真司さん、プロゲーマーのときどさんなどのインタビューも掲載しているが、ここでは同書から、麻布を卒業したばかりの現役藝大生のインタビューを転載しようと思う。麻布の校風や麻布出身者の癖や課題がよくわかるのではないかと思う。
付録三 藝大生が振り返る麻布
川本杜彦(かわもと・もりひこ)
二〇一七年麻布高校卒業、東京藝術大学美術学部先端芸術表現科四年目三年生在籍。
川本さんとは、二〇一五年秋に開催された麻布PTA主催のパネルディスカッションの壇上で、卒業生と現役生として会話を交わしたことがあった。川本さんが卒業した直後、週刊誌の企画で麻布に関するグループインタビューへの協力を依頼したが断られた。「まだ麻布を相対化できていない」という理由だった。そのめんどくさいスタンスが私には非常に「麻布らしい」と感じられた。本書を著すにあたって、彼はどうしているだろうかと思い出し、久しぶりに連絡をとってみた。珍しい話が聞けた。藝大生の視点から振り返る麻布の風景である。
******
本人も気づかなかった道に気づいていた恩師
卒業直後におおたさんから声をかけてもらったのに、麻布について語る気になれなかったのは、まだ僕から近すぎると思っていたからです。かつ、僕にとっての麻布の経験は、あくまでも個々人とのつながりの話であって、当時はそれをもって麻布を語ることは難しいなぁと思っていました。
その個別具体な麻布での経験のなかから、まず高二の面談についてお話ししたいと思います。当時の担任のM先生と親の、進路面談です。面談が始まってすぐ、先生のほうから「川本君は藝大(東京藝術大学)じゃないですか?」と言われたそうです。僕はその場にはいなかったので、のちほど聞いた話ですが。
中島敦の『山月記』を初めて扱った授業で、主人公が詩人として有名になるために技巧を凝らした詩をつくったものの、そこに何か物足りなさを感じるのはなぜかと議論したときに、「先生、彼は一流ではないですよね。自分の中から突き動かされるものに従ってでもなく、世の中に伝えたいことのためにでもなく、ただ名声のために詩をつくってもひとの心を打つはずがない」と僕が言ったと。自分では大したことと記憶していませんでしたが、「初読で、すでに自分の中にこの思いをもっていた生徒は初めてです」と言われたようです。かつ、「彼の国語力が感性優位で、論理によるものだけではないところがまたいいんです」とも。
さらに、僕は中三くらいから独学で絵を描くようになったのですが、その絵を同級生たちが「あいつの絵はいい」と言って褒めて応援していることにも言及されました。「麻布生はそう簡単に他人を褒めないのに(笑)」と。
それで「何かひとが感じながら意識できないでいることを具現化し、提示するその能力を伸ばすことに賭けてもいいのではないか」「目指すべきは藝大なのではないか」という提案だったんです。麻布で先生のほうから先に大学名を提案されることは滅多にないのではないでしょうか。
その日、僕は僕で東大のオープンキャンパスに出かけていました。自分がそこでいきいきと息をしている未来が想像できないことを痛切に感じ、「じゃあ、藝大かなぁ」と思って受験内容について調べながら帰ってきてその話を聞いたので、涙が溢れました。いままで気づかないうちに自分がポロポロとこぼしていた欠片を拾い集めて、「ほら、これが君の道しるべだよ」と言ってもらえたようで嬉しかったです。
男性性を一度ときほぐす必要がある
僕にとってもう一つ幸運だったのは、高二くらいから同世代の女性と話す時間を通して自己を見つめる機会に恵まれたことと言えるかもしれません。高三で通った美大予備校や大学に入ってからも、強い個性とともに凛とした審美眼で物事を眼差すひとに多く出会いました。お年の離れた方とじっくり話す時間もありました。
自分で手綱をしっかり持たんとして生きているひとの心に触れるとき、そのひとの眼差しによって僕自身が自分の当たり前に対して疑いの目を向けることになります。僕のふるまいを「それって社会的な記号を実装しているだけじゃないの?」と指摘されたこともありますし、そのひと自身が記号としての言葉ではなく自分なりの言葉を紡ごうとしている様に対面して、大きく影響を受けました。
男性・女性と「性」でくくるのはあまり有用だとは思えませんが、それでも女性が一つの個であるとともに、大きなスケールの命の気配、巡る流れのなかに存在していると感じることがあります。「母性」という概念があるのであればいまの自分はまさしくそれを目撃し、あるいはそれに照らされているのではないかと思わされるような。自分が頭でっかちに小手先で何かを解決しようとしている態度であるとか、幼稚な欲求の先鋭化が見透かされることはとても幸せなことだと知ったのだと理解しています。
少し前に、グレイソン・ペリーというアーティストが書いた『男らしさの終焉』(フィルムアート社)を読みました。端的にいえば、社会や歴史が男性に要求してきた強さ、男らしさを男性自身が率先して手放したほうが男性のみならず社会全体にとっていいはずだという話です。読み進めながら、そこで語られている多くの「男性が知るべき自らのあるべき弱さ」を、僕は断片的でも対話のなかで見つめることを既に経験していたのかもしれないと思いました。
振り返ると麻布というホモソーシャルな環境の中にいたからこそ、いや正確にいえば僕らの学年にも多様な性がありましたけれど、基本的には学校生活の諸々において女性に面する男性という前提の考え方が構築されなかったのだと思うんですよね。男性性を要求される圧力が限りなくゼロに近い、ある意味での聖域で育つわけです。男性としてのロールプレイを要求されなかった。それによって守られるものってたくさんあったんだろうと思っています。
ただし、ホモソーシャルな環境が仲間意識の確かめ合いみたいな方向に向いてしまうことには気をつける必要があると思うので、男子校出身者としてそこで、「いままでとこれからの男らしさ」についてみんなで和気藹々と話し合える環境があったらと願います。社会における意味からファッションや潜在的なふるまいにいたるまで、いままでの「男らしさの当たり前」を自分たちで解きほぐし並べてみて、丁寧な知性や感性をもって各々の「自分らしさ」を醸成する場として。
言葉の速さに自覚的になれるか?
「麻布生」と「藝大生」。二項対立で捉えることには慎重でありたいですが、それでも僕にとって対比せざるを得ないほど凄まじい振れ幅があったのも事実です。総じて麻布生の言語化能力は単位時間あたりに突出した速度と量を出現させ、そこには速さを躊躇わないでいられる悦びが生じやすい。「速く」「多く」語ることが堂々とできる世界を希求する。でも、その無邪気な悦びを同じようなコミュニケーションパターンとして藝大生に向けることは通用しない。逆に藝大生のコミュニケーションを見ていると、自分自身が内包する「速く」「多く」語るコミュニケーションへの欲求がとても傍若無人なものに思えることもあります。
一方で、麻布生も藝大生もある種の過敏さをその身に有している点で共通しているという実感をもちました。いろんなものを感じてしまう、見えてしまう。そのときの反応において藝大生ならば身体性に委ねる比重が高いのかもしれないし、麻布生は言語の比重が高いのかもしれない。
コロナのステイホーム期間中に、麻布の同級生たちとのオンライン座談会が開催されました。高二~三のころにはできなかったであろう、それぞれがそれぞれの成熟を持ち寄ったような会話がなされているなと思いました。帰ってきたという懐かしい感覚も味わいました。
僕は基本的には言語化が加速できるならできるに越したことはないと考えています。自分の確信と懐疑をくり返して言葉に落とし込んでいくことで前に進みます。でも、藝大に入ってからその前提をメタメタにされるような経験もしました。
身も蓋もない言い方をすれば、麻布生に比べて藝大生の語りは遅いわけです。ただ藝大生の語りは麻布生とは別のベクトルから置かれる言葉であって、藝大生たちが発する数語の言葉のほうが、自分が発する一〇〇の言葉よりも端的に作品や事物を言い表し、この世界をガシッとつかんでいるみたいなことが結構あって。自分から発されているはずの語りの薄さをひしひしと感じました。とても苦しい気づきですが、気づかせてもらえることは幸運なことです。
現代の社会で多くのひとが頼っている言語体系が、実は人間の歴史や文化の中ではごく一部でしかないということを、藝大に入ることによってまざまざと見せつけられたわけです。逆に、自分の言葉による語りの速さへの要求を相手に押しつけて傷つけてしまったこともある。自身がその速さに敏感になると、無自覚に速い言葉を語りとして使っているひとには感情的な距離が生まれてしまいますね。
それで、言葉を止めて、写真なり映像なり身体なりを使って何を語れるだろうか、語ろうとする以前にそこには既に何があるだろうかと試行錯誤する時期をすごしました。そして、それを経て「やっぱり私はその速さをもって言葉を語り続けなければいけない」というところに帰ってきました。久しぶりの麻布生たちとの対話でそのことを強く実感したわけです。
僕の中に麻布生と話すときの“面”と藝大生と話すときの“面”の両方があって、どちらかの自分を選んで使い分けなければならないと勝手に思っていたのですが、いまは二分することなどできない自分らしい面があるはずだと信じて探しています。座談会のメンバーのなかには、中高時代と同じスピードで言葉を使い続けてきたであろうひともいて、それはそれでとても素敵だなと感じました。
ちなみにそのメンバーを少し紹介すると、東大の経済学部に進んだけどやっぱり自分の進むべき道は作曲だと気づいて音楽の道に行こうとしているひとや、早稲田に入って土木業界に関する学生団体を運営しているひと、ボディビルディングに邁進しつつ東工大に通っているひとなど、個性的な面々が目につきますね。同じ学年にはほかにも、学習院に籍を置くも能楽師を目指しているひとや、プロの雀士になったひと、台湾でデザインや編集のスタジオを運営しているひと、自衛官を目指しているひとなども。麻布のみならず世代ごとの社会における「成功モデル」みたいなものがどんどん更新されていくと面白いですよね。
ちゃんと孤独であれ
速い言葉をもっているというのは豊かさではあると思うんですね。でもその豊かさには、それをどう使うのかという責任がともなう。
さきほど話した過敏さも、本質的には豊かなことだと思います。ただ、他者と共有しにくいものを感じてしまう、見えてしまうということは、孤独なことでもある。そしてそれは誰かとつながることで回避するべきものではなく、私が私として受け止めなければいけない孤独ですよね。そこに自分を投じるタフネスがあれば、孤独は孤独でも、豊かな孤独でいられるかもしれない。
さっきのM先生が、高三の国語の最後のほうの授業で、谷川俊太郎さんの詩を引用して絶対的孤絶性について話をしてくれたそうです。ひとがまず個として孤独である状態から始まって、それがつながっていくんだと伝えようとしていたらしいんです。僕は高三ではM先生の授業を受けていなかったので、友人から聞いた話なんですが。要するに麻布での最後のメッセージが「君たちはちゃんと孤独であれ」ということだったと。それは、授業で取り扱われるテーマや学校の態度から僕自身が感じとっていたことと重なります。
最近「教養」というものを人々が歴史のなかでどのように解釈して語ってきたのかについて改めて興味をもつようになり、このコロナ禍中にその手の本を読み進めたのですが、教養について考えていくと世情からどんどん遠ざかっていくというか、本当はお前は独りなんだということを突きつけられます。
だからこそ、麻布の環境を守り育んできたひとたちは、ちゃんと独りで沈むことの大切さを伝えようとしているのだと、いまの僕なりに理解しています。
一人のひとが何かを知るためにあるいは自分を知るために切実に生きようとすれば、一人で深い海の中に潜っていかなければいけないときがある。途中まで誰かが見送ることはできるが、ある程度深くなるとそこからは一人で進まなければいけない。でも、そのひとが潜っていくのを見守ることと、潜ったという事実を忘れないこと、そして潜ってまた上がってきたときに祝福して抱きしめることは、きっとできるはずですよね。
中高時代の僕は、静かな場所を求めてときには保健室でお昼を食べたり、教室の後ろにあるロッカーの上に座って授業を受けたり、思いつきでいろいろとやりましたけれど、自分が自分らしくあるためにとったそれらの行動を、一度も頭ごなしに否定されたことがありません。あげつらわれたことも。そういう行動を、麻布の中では特別なことだと思わされなかった。
でも、麻布の外に出ていろいろとぶつかる経験をして、「あ、僕がいままでやっていたことは当たり前のことじゃないんだ」と気づきますよね。そのとき初めて「僕は守られていたんだ」とわかる。やっと。
いま思えば、もし傍から見たら突飛な一連の自分の行動が特異なことだと自分が認識させられていたとしたら、そのこと自体が、自分が自分であるために特別なことをしなければいけないという根拠になってしまっていたと思うんです。それが徹底的に回避されたことで、誰に必要とされるわけでもなくありのままにある自分の姿でそこにいられたことを、時を超えていま理解できます。その感覚的体験によるベースがあって、あらゆる事象、ひと、経験をありのままに感覚する「私」があっていいんだよと、いまでも麻布から言い続けてもらえている気がするんです。
麻布に入ったから自分がこうなったという感覚はありませんが、麻布で守られた自分がいて、いまでも励まされ続けているという感覚はあります。
(『麻布という不治の病』より)