埼玉県立高校一律共学化議論は埼玉県民だけの問題ではない。3つの観点とたった1つの究極の問いで論点整理
「差別撤廃」と「伝統や校風」では話の次元がかみ合わない
現在、埼玉県で公立高校を一律共学化すべきかどうかの議論が行われている。男子校が女子の入学を拒むのは女子差別撤廃条約違反ではないかという苦情が県に寄せられたことに端を発している。
2024年4月現在、公立の男女別学校があるのは、全国でも8県に限られ、特に埼玉県12校、群馬県12校、栃木県8校と北関東に集中しているが、北関東限定の問題ではない。
どのように男女協働参画社会を実現すべきなのか、そのうえで学校はどのような役割を果たすべきなのかという社会的選択にかかわる問題である。
議論は大詰めを迎えており、一律共学化に賛成の立場からも反対の立場からも多くの意見が寄せられている。ただし、男女平等のために一律共学化を求める声に対して、別学校のメリットや、ましてやそれこそジェンダー・バイアスにまみれているかもしれない伝統や校風を盾に反論するのでは話がかみ合わない。
拙著『男子校の性教育2.0』(中公新書ラクレ)でも大きく取り上げているこの問題を、ここではできるだけ簡潔に論点整理したい。今回の埼玉県に限らず、男女別学校の存在可否を問う際に欠かせないと私が考える観点は次の3つだ。
(1)学校単体で必ず機会の平等が保たれているべきなのか、複数の学校を1つのシステムととらえて全体として機会の平等が保たれていればいいのか。
(2)ジェンダーの観点だけで決めていいのか、思春期における男女の発達の違いへの考慮は必要ないのか。
(3)男女のコミュニケーションについて教えるのは学校の責任なのか、それとも社会全体として担うべき責任なのか。
女子校はアファーマティブ・アクションと認められやすいが……
1つめの観点。男子校にせよ女子校にせよ、生まれたときに割り当てられた性別によって入学を拒絶するのはそこだけ見れば明らかに差別だ。しかし埼玉県立のすべての学校を1つの教育システムだととらえ、全体として同質の教育を受ける機会の平等が保たれているのならいいという考え方もできる。
学校単体で考えるのか、複数の学校を1つのシステムとしてとらえるのか。どちらの立場に立つのかによって教育行政が向かうべき方向性は大きく変わる。
選択肢の多様性が大事だというのならあらゆる学力層に共学か別学かの選択肢があるべきという意見がある。現状は、学力トップ層しか別学を選べないじゃないかと。まったくそのとおりである。トップ進学校以外の、人気の落ちてきた別学校を統廃合という形で単純に共学化してしまった結果がいまの状況なのだ。
2つめとして、男女共同参画社会の実現が学校教育の目的の1つであることは間違いないが一方で、それぞれの子どもが心理的安全を確保され、のびのびと、その子らしく学べることを保障するのも学校運営の重要な観点だといえる。
たとえば、生徒会長は男性であるべきとか、女子は数学や物理が苦手であるというレッテル貼りのようなジェンダー・バイアスの悪影響を受けないために、男子グループがいない環境で教育を行う女子校には、男女共同参画社会の実現という文脈でも前向きな意味があると理解されやすい。
しかし、思春期における男女の発達段階の違いを考慮すると、この時期、男子は女子より心身ともに発達が1年から1年半遅れる傾向があるといわれている。つまり共学校の環境では、多くの男子からしてみれば、常に“同い年のお姉さん”たちに囲まれている状況に等しい。劣等感を覚えてしまったり、萎縮してしまったりするケースが実際ある。
ジェンダー(社会的な意味での性)において女子校にアファーマティブ・アクションの側面があるとするならば、セックス(生物学的な意味での性)においては男子校にもアファーマティブ・アクションの側面があるとも考えられる。どちらを優先するかによって、あるべき学校の姿は変わる。
約9割の高校が共学なのになぜ男女平等にはなっていない
また、女子校が女子に「女性だってもっと社会のなかでの立場向上を目指していい」というメッセージを発することに意味があるのなら、男子校が男子に「競争に勝ち続けてバリバリ稼いでぐいぐい引っ張るばかりが男性ではない」というメッセージを積極的に発してもいいはずだ。
それだってジェンダーという観点からの、男子への逆説的アファーマティブ・アクションだといえるし、拙著『男子校の性教育2.0』の取材のために訪れた男子校の教員たちは実際、そのようなメッセージを生徒たちに向けて盛んに発していた。
3つめの観点として、異性とのかかわりは必ず学校の中での日常をとおして学ぶべきだという立場をとるのか、地域社会や他校とのかかわりといった学校以外の環境でそれを学べればいいという立場をとるのかという問題。
地域社会が十分に機能しなくなったといわれて久しいし、大切なことは何でも学校で教えなければいけないと思われがちな昨今ではあるが、これは社会として学校にどこまでの機能を求めるか?という問いに置き換えられる。
男女共同参画社会において肝心なのは、恋愛や結婚の対象ではないひとたちともそれぞれの違いを認めつつ対等な関係性を取り結べるかどうかである。
その目的において、学校の外で、普段は生活をともにしていない男女が“友達”とは違う適度な距離感を保ちながら協働して企画を推進する経験を積むことには、むしろ実践的な意味を期待できる面もある。拙著『男子校の性教育2.0』ではそのような事例も複数紹介している。
男女別学が誰かのなんらかの権利を奪っているか?
実際には上記3点のいずれについても、どちらの立場を選ぶかという社会的合意をつくるのは極めて難しいのではないかと思われる。それでも、これだけの観点があり、どの立場を選ぶかによって“正しさ”が変わることを共有できれば、単純な二項対立図式を脱却して少しずつかみ合った議論が可能になるはずだ。
そのうえで、男女別学校の存在可否を論じるなら究極的には、「男女別学の存在が誰かのなんらかの権利を侵害しているか」という論点に焦点を絞るべきだと思う。「男子だけ女子だけで学びたいとすることが具体的に誰のどんな権利を奪っているか」と換言できる。
これについては、「浦高(浦和高校)に入りたいのに入れない女子がいる」「浦和一女(浦和第一女子高校)に入りたいのに入れない男子がいる」という応答が考えられる。
では、浦高に入りたい理由は何か? 浦和一女に入りたい理由は何か? その目的はほかの選択肢では達成できないのか? その目的を達成するために、男子だけ、女子だけで学びたいとするひとたちの権利を奪う正当性はあるのか? ……を考えてみるべきだと思う。
単純に共学化するだけでは男女平等社会にならないことは、すでに92%の高校が共学であるにもかかわらず男女平等からはほど遠い現在の社会が証明している。今回の共学化議論をきっかけにして、具体的にどのような教育が行われれば男女協働参画社会の実現に資するのかという議論が全国で活発化してほしい。