桜前線はブラキストン線を超えて日本初の気象台ができた北海道の函館に上陸
今年(2018年)の桜は、2月の厳しすぎる寒さと3月の急激な気温上昇により、東日本や西日本では記録的な早さで開花や満開になりました。しかし、4月4日に山形市で開花したあとは、寒気が南下したことで、桜前線の北上は東北地方南部でストップし、秋田市と盛岡市が開花したのは山形市での開花から約2週間後の4月17日になってからです(青森市の開花は4月19日)。
そして、4月25日北海道・函館で桜(ソメイヨシノ)が開花しました。桜前線が北海道に上陸したことで、北海道も桜の季節を迎えます。
桜前線が北海道へ
桜の開花日を地図上に記入し、同じ日を結んだものが桜前線です。桜前線は沖縄からスタートし、本州の太平洋側から日本海側の地方へ、南の地方から北の地方へ、麓から山頂へ向かって進みます。
そして、4月下旬頃に北海道に上陸した桜前線は、北海道の日本海側の平野部を北上してから北海道の東部に進みます。
ただ、ここでいう桜の開花は、気象庁が長年観測を行っている場所にある特定の桜の木についての開花(一つの木で数輪が咲いた状態)で、桜の種類は、ほとんどがソメイヨシノですが、沖縄と北海道が例外です。
沖縄県では、ソメイヨシノにかわってヒカンザクラを観測しています。
北海道は地域によってソメイヨシノ、エゾヤマザクラ、チシマヤマザクラの3種類を観測しています(表1)。札幌と函館はソメイヨシノです。
北海道は、場所によって桜の種類が違うことに注意が必要ですが、ゴールデンウィーク以後にも、桜の見頃となっている地方があります。
桜前線の北海道上陸地点は函館
北海道の中で一番暖かく、最初に桜前線が上陸するのは函館です。平年(30年平均)が4月30日ですが、最近の10年間では4月28日と、年々早くなっています。
図は、函館の桜の開花日の頻度分布ですが、昭和56年(1981年)以降は4月中に桜が開花する年が多くなっているのがわかると思います。
全体的に桜の開花が早まっていますが、函館も同じです。統計を開始した昭和28年(1953年)以降で、函館の最も早い桜の開花は、平成14年(2002年)の4月18日です。今年は4月25日でしたが、4月上旬の寒さがなければ、この最も早い記録に迫っていたと思います。ちなみに、最も開花が遅かった昭和59年と比べると、ちょうど一ヶ月早い開花となります。
東日本では桜の開花から満開までは1週間くらいですが、函館では3~4日です(表2)。
北海道は桜を鑑賞する季節は短いのですが、これまではゴールデンウィークでした。
しかし、近年は、ゴールデンウィークには花見が終わっている可能性がでてきました。東日本では、歓迎会の花見から送別会の花見に変わってきたように、花見と生活との関係が少しずつずれてきました。
ブラキストン線
幕末から明治期に日本に滞在した貿易商で博物学者であったイギリス人のトーマス・ブラキストン(Thomas Wright Blakiston)は、北海道南部の函館山に生息している鳥の観測などから、本州と北海道は動物学的に異なっていることを発見しています(函館山の山頂付近には、ブラキストンの功績を記した碑があります)。つまり、津軽海峡が動物学的分布境界線(ブラキストン線)があるというものです。つまり、津軽海峡を挟んだ青森と函館では、同じ種類の桜が咲いていても、その下を行き交う動物は違っているということを意味しています。
津軽海峡は、最も深いところで140メートル位の水深です。最終氷期(約7万年~1万年前)の海面低下は最大で約130メートル位あり、本州と北海道は陸続きのところもあったと考えられます。最終氷期には行き来できた動物も、最終氷期が終わって海面上昇が始まることで行き来ができなくなり、北海道と本州の生物が異なってきたと考えられています。
ブラキストンは、慶応3年(1867年)に友人とともに商会を設立、貿易商として20年以上にわたって函館で暮らしています。その間、自宅で気象観測をしています。そして、測量や博物学、気象学などを、イギリス人アレキサンダー・ポーターが経営していた商会に勤めていた函館の船大工の息子、福士成豊に教えています。
なお、福士成豊は、ポーター商会勤務中に新島襄(同志社大学の創始者)に出会い、彼のアメリカ密航を手伝ったことでも有名です。
また、函館山の山頂付近にはブラキストンの記念碑があります。
日本初の気象台は函館に設置
日本で気象業務が始まったのは、内務省地理局が東京赤坂に気象掛(通称は東京気象台)を置いた1875年6月1日(明治8年6月1日)からとされています。
このため、6月1日が気象記念日となっていますが、北海道開拓使は、その3年前の1872年9月28日(明治5年8月26日)に、北海道の函館に気候測量所を置いています。これが、現在の函館地方気象台の前身です。所長は、ブラキストンから指導を受けた福士成豊、場所は福士成豊の自宅があった函館・船場町(現在の末広町)でした。
太陽暦が採用されるのは1872年1月1日(明治5年12月2日)ですので、太陰暦が使われていた時代に気象台が誕生です。
当時の気象業務の主目的は気候観測で、観測結果を統計し、農業などの産業に役立てようというものでした。このため、函館、東京に続いて各地で気象台などの気象官署が作られてゆくのですが、開拓が始まっていた北海道では、新しい土地で農作業を試みる関係から、早くから各地に気象台(測候所)が作られています(表3)。
中央気象台(現在の気象庁)の初代台長は、徳川幕府軍と明治新政府軍の最後の戦いである函館戦争において、旧幕府海軍を率いて戦った荒井郁之助です。函館は、日本で最初に気象台ができた場所というだけではなく、日本の気象事業において重要な場所でした。
図、表1、表2、表3の出典:気象庁資料をもとに著者作成